ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

られていたけれど、学校でもやるの。何年か前、DDTはとても毒性が強いと分かったらしいですが、よく皆、どうもならなかったと思います。「おにぎりをもらった人」との出会い──戦中戦後の学校教育はどんなものでしたか。私はまだ小さかったからそんなに分かりませんでしたが、現実に起きている戦争が反映されていたのは感じました。朝は皇居に向かって最敬礼しましたね。それはどこの学校でもやっていました。校舎が焼けてしまった後は教室もありません。鶏小屋の鶏は食べちゃってますから、戦後すぐは鶏の糞ふんの溜まった小屋を掃除して授業をしていました。私立で遠くから来ている子が多かったので、戦後に再開してもそんなに人数もいませんでしたし、ある程度は広かったのですが、夏はすっごく臭かったですね。その後は校庭にカマボコ兵へいしゃ舎のようなものを建てて使っていました。これは風の通り道がないから夏はすごく暑いし冬は寒い。マスール(先生)もしもやけになり、手が風船みたいになって、ちょっと触るだけで痛いって。栄養が足りないから、血液の循じゅん環かんも悪いんです。かわいそうでした。──焼けてしまった家はどうしたのですか。疎開先から戻ってすぐ、両親がトタンとか木を集めて家を作りました。元の家は、建物はうたちと泊めてもらいました。そしてある日、ほんわかといい匂いがしているなぁと、匂いをたどって行くと、うちのそばの商店が並んでいたあたり、乾物屋さんが焼け落ちたところに、ぽっかりと地下に行く階段があったんです。それで皆で降りてみますと、お砂糖が麻あさ袋ぶくろに入ったまま、真っ黒に焼けていました。戦時中はお砂糖もお米も配給ですから、そんなものが地下にあるとは誰も思いません。その家は疎開していて、いないからもう天てん下か御ご免めんです。しばらくはそれをもらってきてお三さん時じにしていました。そのうち、配給の砂糖があんなに残っているのはおかしいと大人たちも言い出しました。後から想像すると分かりますが、当時の子供たちにとっては「お砂糖が食べられるー」って、すごくうれしかったですね。──その頃は食事も苦労されたんですね。お米は配給だから、親たちは苦労して調達していました。なくなればお芋やすいとん。その方が多かったですね。白米のご飯はほとんど食べられませんでした。もちろんおかずもない。だから皆、栄養失調になるんです。するとオデキが出来ます。足の甲に出来て、どんどん深くなるの。膿うみも溜たまっていくけれど、つける薬もありません。私、今も跡がありますよ。また、薬と言えば、シラミを取る殺虫剤のDDT。大きな噴ふん霧む器きで白い粉を頭に撒まくんです。頭の毛ジラミって、手では取れないんですよ。上野の地下道で生活している浮ふ浪ろう児じがよくかけ皇居坂下門。当時は日常生活の中でも節目節目に皇居に向かって最敬礼していた108未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集