ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

れじゃあ、無料で理髪をやろう」と。道具は鞄かばんに入れて持っていますから、せめて髪の毛を刈るだけでもやろうと無料理髪をやりました。どこにも髪の毛を刈るところがないので、お客さんがとても喜びましたね。遠方からいらっしゃったのか、見たことのない方も多かったです。洗ったり顔をそったりなどはできないものですから、ただ短く刈るだけですよ。それだけでも喜んでくれました。──根岸さんは戦争の終わり頃、日本が負けるかもしれないということは考えましたか。日本の勝利を信じていましたから、そういうことは考えないです。けれども、そうはいかなかったですね。B29も大量に飛んでくるし、飛行機でもなんでもアメリカの物量には負けますから。──麹町にもB29は飛んできたのでしょうか。ええ。今の国立劇場のところは当時、広場になっていました。そこへ米兵が落下傘で降りてきたことがあります。捕まえて警察へ連れて行ったのではないでしょうか。そこで殴ったり暴行を加えたりということはなかったようです。──当時、飛行機がまくビラや金属を拾うと怒られたとうかがったのですが、どういうことでしょうか。米軍が懐かい柔じゅう策さくを書いた伝でんたん単(宣伝ビラ)を飛行機でまいていて、それを拾って見てはいけないと言われていました。金属は、電波を攪かくらん乱せん。そういうひどい状態でした。今でも浅草へ行くと、当時を思い出して心の中で手を合わせます。焼け残った椅子で無料理髪を行う──自宅が焼けてしまってからどのように生活していたのですか。うちの近くには道路に防空壕が掘ってあったので、しばらくはその防空壕へ避難してその中で生活しました。──食事はどのようなものだったのでしょうか。配給制度がありましたから、それをいただいていました。お米のかわりにコッペパンなどすぐ食べられる物が配られました。3食1日分として何日分かが配給になりましたが、お腹がぺこぺこなものですから明日の分も食べてしまう。明日はなんとかなるだろうと(笑)。なにしろ、お腹は減っているし食べ物はないし、散さんざん々たるものでしたね。──理髪店はどうなったのでしょうか。うちの弟でし子が下町の方で店をやっていたのですが、3月10日の空襲で焼け出されたので、うちに避難してきて生活していました。麹町大通りから善ぜんこく国寺じ坂ざかに上がるところの道路が少し広くなっているのですが、弟子は空襲の経験があるものですから、5月25日のとき、そこに椅いす子を引っ張り出してくれたんです。自宅や店は焼けましたが、椅子2台が焼け残ったので、「そ昭和20年8月、米軍機からまかれた伝単(宣伝ビラ)(角田実さん提供)114未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集