ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ると、近隣の人から「氷屋の三男は、何をもたもたしているんだ」と後ろ指をさされてしまう。あるときは、休暇の日に工場から自宅に帰る途中に憲けんぺい兵に呼び止められ、「おい学生!なんでこんな時間に街を歩いているんだ」と怒どな鳴られました。私は工場から休暇の証明書をもらっていると答えましたが、「バカ野郎!第一線に休暇などあるか。今すぐ工場に戻って働け」と返されました。──戻ったのですか?戻りませんよ(笑)。「はいっ、今すぐ戻ります」と返事だけして、そのまま家に帰りました。でも見つかったらまた何を言われるか分からないので、自宅にずっとこもっているしかありませんでした。──蒲田の工場へは、自宅から通っていたのですか。最初の頃はそうしていたのですが、空襲のために電車がちょくちょく止まるようになってしまいました。そのころ、池いけがみ上(大森区=現・大田区)に住んでいた同僚の家族が疎そ開かいすることになり、空き家にするのも不用心だということで、「家賃はいらないから住んでくれないか」と頼まれて、しばらくそこから通っていました。アメリカの技術力に圧倒されて──蒲田の工場へ通っていた頃、印象に残っている出来事は何がありますか。東京の高射砲陣地があった頃は、敵機も1万メートルほど上空を飛んでいました。しかし高射砲を爆撃で失ってからは、アメリカの飛行機が低空で飛ぶようになりました。B29がものすごく大きく見えました。艦かん載さい機きからの機きじゅう銃掃そうしゃ射に遭あったとき、操そう縦じゅう桿かんを握るアメリカ兵の顔まで見えました。空襲で焼しょういだん夷弾が使われるようになった頃、工場へ向かう途中でその不発弾を見つけたことがあります。工場で分解してみたら、尾の方にはひらひらとしたボロ布が付いていて、弾の中にはドロドロの油脂と、先端の方に赤と青の火薬が入っているのが分かりました。それが地面に当たると、衝しょう撃げきで2つの火薬が合わさって爆発し、飛び散った油にばーっと火がつくのでしょう。そうして燃え広がった火は、もう消しようがないのです。──千代田区を襲おそった空襲も、それで木造家屋がずいぶん燃えたそうですね。自宅のあった神田旭町も、昭和19( 1944)年11月の空襲で焼けてしまいました。もう一つとても印象に残っているのが、撃げきつい墜されたB29の機体を見に行ったときのことです。操縦席の窓ガラスのかけらを工場に持って帰ってみたら、ガラスが曲がったので、「ガラスが曲がる!」とびっくりしました。当時の私たちにとって窓といったらガラスしか思いつかなかったのですが、B29には樹脂──今でいう強化プラスチックが使われていたんです。次兄の出征時の様子117未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記暮らし