ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

い逃げ回って捕まえる遊びです。──鬼ごっこのようなものですか。いえ、鬼ごっこは鬼が1人で、ただ捕まえるだけでしょう。そうではなくて優劣が付けてある。たしか、戦艦がやられてしまうと全員負けになったのかな。──子供たちの間では海軍が人気だったんですね。格好いいですからね。当時、男の子はみんな海軍に憧あこがれていました。──ただ、このあたりは陸軍の人がよく歩いていたのではないでしょうか。多かったですよ。今の陸上自衛隊のところが士官学校で、その後、参謀本部になりましたから。将校が馬に乗り、うちの前を通って出勤して行くんです。馬ば糞ふんなんかも落ちていました。兵隊が後ろについて歩いて掃除をしていたみたいです。──女の子はどんな遊びをしていたのですか。組が違うからよく分かりませんが、ゴム跳とびをやっていたようです。輪ゴムを紐ひも状じょうにつなげて跳ぶ遊びです。ピンと張っておいて、高さをだんだん上げていく。背丈よりも高く跳べる子もいましたね。──昭和16(1941)年に太平洋戦争が始まりましたが、戦争が始まりそう、もしくは始まったという感覚はありましたか。私が子供の頃から中国と戦争していましたから、定期的に防空演習がありました。警けいかいけいほう戒警報や空襲警報のサイレンが鳴って、電気を防空演習用の電球に取り替えたり、白熱灯の電気に布をかぶせて暗くしたり。小学校へ入る前からやっていましたね。年に2回くらいはあったのかな。子供だから怖いという感覚はなく、年中行事という感じでした。──疎開についてお聞かせください。昭和19年、小学校6年生の2学期から集団疎開が始まり、3年生以上が強制的に疎開させられました。その前に、学校から縁故のある方はできるだけそちらへ疎開したほうがいいという勧めがありました。集団疎開の場合、麹町区の小学校はみな山梨県が疎開先です。山梨県は食糧事情があまりよくないため、なるべく縁故疎開を勧めたようです。また、集団疎開のほとんどの疎開先は旅館でしたが、その当時の旅館というと行商人が泊まるような宿。どこの田舎にも中心地にそういう宿がありましたが、もちろん、今のような綺き麗れいなホテルではありません。私はたまたま父親の田舎が埼玉県の嵐山町だったので、そこに縁故疎開しました。最初は弟と2人でしたが、昭和20( 1945)年3月の空襲の後で姉妹が、5月の空襲の後で母親が合流しました。父親だけ四番町に残っていました。父親は弁護士で、隣となり組ぐみの組長を務めていました。疎開先では農作業を手伝う──疎開先では地域の学校に通うのですか。い杉田さんが通学していた東郷小学校(建て替え前の九段小学校)隣組昭和15年9月、内務省訓令で防空演習や国債割り当てなど〝上意下達〟を目的とした「隣組」体制が整った。連絡事項を記した回覧板が各家庭に回され、常会が班ごとに開かれた。「とんとんとんからりと隣組」は全国で歌われることに。69未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開