ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

うちのような店の店員は、たいてい尋じん常じょう小学校を卒業してから2年間高等小学校へ行き(年代によっては国民学校を卒業してから2年間高等科に行く)、それから店に入ってきます。それが20歳になると徴兵検査に行きます。鉄関係の仕事をしていて身体もよいから、みんな甲こう種しゅ合ごうかく格です。特に日中戦争が始まってからは、徴兵検査に受かったらすぐに召しょう集しゅうされるようになりました。うちの店員もほとんどが出征しました。東紺屋町は商業地区で、昔は店員も多くて賑にぎやかでしたが、それがどんどん兵隊に行って、最後は火が消えたようになりました。「ヒトラーユーゲント」に旗を振る──戦争が始まり、生活が大きく変わっていくという感覚はあったのでしょうか。1日や2日で戦争になるわけではありません。日本の場合は昭和になってから、軍隊でも過か激げきな人がどんどん出てきました。政治家が殺され、活発な人間や威い勢せいのいい人間が力を持ってきた。物事を正確に考えていたおとなしい人たちは黙だまってしまう。満まん州しゅう事じ変へんはその顕けんちょ著な例です。──世の中はまさにそのような動きだったのですね。昭和12年12月、南なんきん京が陥かんらく落したときはすごかったです。私が小さい頃ですが、宮きゅうじょう城の前で旗行列をやりました。当時、市電が走っていましたが、銀座通りでは飾り付けをした花電車も出ました。日本とドイツの同盟強化に伴って、昭和13( 1938)年にはドイツの若い青年団「ヒトラーユーゲント」も20人くらいが日本へ来ました。そのときは歓迎するということで、「万ばんざい歳ヒットラー・ユーゲント」という歌までありました。私も参加してかぎ印の旗を持って振りました。それから日本はドイツを真まね似して統とうせいけいざい制経済を導入しました。配給制になったんです。配給制になると、食べ物をはじめ何もかもが配給です。お米は1日2合でした。小学生の頃は、運動靴は1年に2足しか配給になりませんでした。だからほとんど下げ駄たです。戦争中は学童疎開をしましたが、靴ではなく、足たび袋で下駄を履いていました。──お父さんの商売のほうはどうだったのでしょうか。一般的に働いている人は、第1次産業や第2次産業より第3次産業に従事している者が多いです。徴兵は第3次産業からどんどん人を吸い上げます。人もいなくなり、景気も悪くなっていって、昭和17( 1942)年頃からだんだんと商売というものができなくなりました。うちも工場も閉めて売り、そのお金で埼玉県の川口に田んぼと畑を買いました。うちはきょうだい9人、家族全部で11人いましたから、農業をやって配給と田んぼでなんとか食いつなごうと。戦争が終わるまで、うちは田んぼや畑を作りなが鈴木さんが疎開した群馬県高崎市長純寺上空の航空写真満州事変(支那事変)日中戦争のこと。北京郊外豊台に駐屯の日本軍歩兵隊が、昭和12年7月7日、盧溝橋付近で中国軍と激突。一時は停戦したが、交渉不調のまま日本側は本格派兵に踏み切り、宣戦布告なしに全面戦闘に入り、太平洋戦争にまで拡大した。75未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開