更新日:2014年11月11日

ここから本文です。

町名由来板:松永町(まつながちょう)

地図

  • 設置年月日:平成16年2月29日
  • 所在地:神田松永町13番地

町名由来板

ここはかつて松永町(まつながちょう)と呼ばれていました。この町名ができたのは今から三百年ほど前の元禄(げんろく)(1688年~1704年)のころです。
元禄十一年(1698年)、江戸城整備の一環として、鎌倉町(かまくらちょう)から西紺屋町(にしこんやちょう)(現・中央区)までの十五の町の一部を削って、外堀沿いの道が拡張されました。その翌年、これらの町に住んでいた人々が、現在の外神田一丁目(そとかんだいっちょうめ)周辺に代地(だいち)を与えられて移り住みました。このとき付けられたのが、「松永町」です。
名前の由来については明確な記録が残っていません。明治三十三年(1900年)刊行の「新撰東京名所図会(しんせんとうきょうめいしょずえ)」には、当時の人々が、新たな町に住むにあたって「松がいつも緑であるように、この町の賑わい(にぎわい)も永久のものであってほしい」という願いを込め、「松永」という名を選んだのではないかと記されています。
商人や職人の住む町として発展をとげた松永町ですが、幕府とのかかわりも深い土地でした。「文政町方書上(ぶんせいまちかたかきあげ)」によれば、町ができた当時、幕府お抱え(おかかえ)の絵師・狩野探信(かのうたんしん)の拝領屋敷も町内にありました。狩野派は幕府や朝廷の御用絵師として栄え、探信の父の探幽(たんゆう)は、「鵜飼(うかい)図屏風」や二条城(にじょうじょう)二の丸の障壁画(しょうへきが)などで知られています。また、文政七年(1824年)の「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」には、弓を射るときに用いる「ゆがけ(鹿革の手袋)」という道具をつくる御用職人・釘元又左衛門が住んでいたことも記録されています。
明治時代には、文豪森鴎外(もりおうがい)の住居も町内にあったと伝わっており、夏目漱石(なつめそうせき)もまた小説「草枕(くさまくら)」の中で、この松永町にふれています。

お問い合わせ

地域振興部コミュニティ総務課コミュニティ係

〒102-8688 東京都千代田区九段南1-2-1

電話番号:03-5211-4180

ファクス:03-3264-7989

メールアドレス:komisoumu@city.chiyoda.lg.jp

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?