トップページ > 文化・スポーツ > 文化 > 千代田区町名由来板 > 町名由来板:町名から探す > 町名由来板:小川町ニ丁目(南部)(おがわまちにちょうめ(なんぶ))

更新日:2014年11月11日

ここから本文です。

町名由来板:小川町ニ丁目(南部)(おがわまちにちょうめ(なんぶ))

地図

  • 設置年月日:平成16年9月2日
  • 所在地:神田小川町二丁目3番地

町名由来板

江戸時代、小川町(おがわまち)は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
古くは、鷹狩(たかがり)に使う鷹の飼育を行う鷹匠(たかじょう)が住んでいたことから、元鷹匠町(もとたかじょうまち)と呼ばれていましたが、元禄(げんろく)六年(1693年)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉(つなよし)が「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹(ねぜり)をあらひこそすれ」と詠んで(よんで)います。

安政(あんせい)三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、この界隈(かいわい)には五千石の旗本(はたもと)で御小姓組番頭(おこしょうぐみばんがしら)の蜷川(にながわ)相模守(さがみのかみ)、二千石の旗本で御側衆(おそばしゅう)の太田播磨守(はりまのかみ)、同じく御側衆の平岡丹波守(たんばのかみ)の屋敷がありました。
明治五年(1872年)、周辺の武家地を整理して東側は錦町一丁目(にしきちょういっちょうめ)、西側は錦町二丁目(にしきちょうにちょうめ)となり、明治十一年(1878年)、神田区に所属します。明治時代の錦町一丁目には、簿記学速記学速成教授所のほか、牛肉店や洋品店、菓子店などがありました。また、二丁目には天神真揚流柔術(てんじんしんようりゅうじゅうじゅつ)教授所、矯正(きょうせい)看護婦会などがあったようです。
昭和八年(1933年)、区画整理により、ここは小川町二丁目(おがわまちにちょうめ)となります。昭和二十二年(1947年)に神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町二丁目となりました。

お問い合わせ

地域振興部コミュニティ総務課コミュニティ係

〒102-8688 東京都千代田区九段南1-2-1

電話番号:03-5211-4180

ファクス:03-3264-7989

メールアドレス:komisoumu@city.chiyoda.lg.jp

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?