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更新日:2014年11月12日

町名由来板:駿河台(西)(するがだい(にし))

地図

  • 設置年月日:平成16年3月25日
  • 所在地:神田駿河台二丁目3番地

町名由来板

高台である「駿河台(するがだい)」は元来、本郷(ほんごう)・湯島台(ゆしまだい)と地続きで、その南端に位置し、「神田山(かんだやま)」と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発(ひんぱつ)するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀(そとぼり)の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈(かいわい)は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
さて、家康が駿府(すんぷ)で没した後、家康付(いえやすづき)を解かれ、駿河から帰ってきた旗本(はたもと)(駿河衆(するがしゅう))たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。
江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本中坊長兵衛(なかのぼうちょうべえ)、また、幕末には勘定奉行(かんじょうぶぎょう)や軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)を勤めた小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明(かとうたかあき)男爵邸、坊城俊長(ぼうじょうとしなが)伯爵邸、小松官邸などいくつかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。
明治五年(1872年)に新たに定められたこの地域の町名は、駿河台西紅梅町(するがだいにしこうばいちょう)、駿河台北甲賀町(するがだいきたこうがちょう)、駿河台南甲賀町(するがだいみなみこうがちょう)、駿河台袋町(するがだいふくろまち)、駿河台鈴木町(するがだいすずきちょう)(いずれも神田区)でした。関東大震災後の区画整理が終わった昭和八年(1933年)に現在の駿河台一丁目(するがだいいっちょうめ)、駿河台二丁目(するがだいにちょうめ)に町名が変更され、昭和二十二年(1947年)に千代田区となってからもこの地名で親しまれています。

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