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更新日:2014年11月11日

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町名由来板:多町二丁目(たちょうにちょうめ)

地図

  • 設置年月日:平成16年11月13日
  • 所在地:神田多町二丁目4番地

町名由来板

慶長(けいちょう)八年(1603年)、徳川家康は荒涼たる武蔵国(むさしのくに)、江戸に幕府を開いて全国支配の中心とするとともに、神田・日本橋・京橋で町づくりを始めました。
寛永(かんえい)年間(1624年~1644年)以前に成立した町を江戸古町(えどこちょう)といい、神田には二十二の古町がありました。慶長十一年(1606年)に起立した「田町」も江戸古町のひとつであり、神田で三番目にできた町です。現在の町名表記は「多町」ですが、町ができた当時は「田町」でした。神田はもともと低湿地帯で、「田町」も田を埋め立ててできた町と考えられています。
慶長(1596年~1615年)のころ、田町一丁目(現・多町二丁目)にできた青物(野菜)市は、草創名主(くさわけなぬし)(江戸成立期からの名主)の河津五郎太夫(かわづごろうだゆう)が開いたとされ、それは明暦(めいれき)の大火(1657年)後に大きく発展し、江戸幕府御用市場となりました。市場の繁栄と町の賑(にぎ)わいとともに、町名も「多町」へと変わりました。相対取引(あいたいとりひき)(話し合いで取引すること)で栄えた神田青物市場は、昭和三年(1928年)に秋葉原(あきはばら)へと移転するまで約二百七十年間続きました。市場は、江戸・東京の食を供給しつつ、粋(いき)な気負いの「神田っ子」といわれる気質を形成する源にもなっていました。
関東大震災後に道路や町が整備され、昭和八年(1933年)には町名地番が改編されます。これによって三百三十年続いた(旧)多町一丁目と(旧)多町二丁目などが合併してできた町会が、現代の多町二丁目町会です。当時、新たにつくられた(新)多町一丁目は、昭和四十一年(1966年)の住居表示の実施で内神田三丁目に編入されたために、今は多町二丁目だけになりました。

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