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更新日:2014年11月11日

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町名由来板:内幸町(うちさいわいちょう)

地図

  • 設置年月日:平成16年6月26日
  • 所在地:内幸町一丁目1番

町名由来板

この界隈(かいわい)には江戸時代の初期から大名屋敷が置かれていました。安政(あんせい)三年(1856年)の絵図にも見られるように、陸奥白河(むつしらかわ)藩阿部家、薩摩(さつま)鹿児島藩島津家、肥前小城(ひぜんおぎ)藩鍋島家、大和郡山(やまとこおりやま)藩柳沢家、日向飫肥(ひゅうがおび)藩伊東家、石見津和野(いわみつわの)藩亀井家の上屋敷(かみやしき)がありました。
明治五年(1872年)、阿部家、島津家、鍋島家の上屋敷を合併して内山下町一丁目(うちやましたちょういっちょうめ)、柳沢家、伊東家、亀井家の上屋敷を合併して内幸町一丁目(うちさいわいちょういっちょうめ)となりました。内山下町、内幸町という町名は、山下御門(ごもん)、幸橋(さいわいばし)御門の内側に位置していたことに由来しています。
明治時代の内山下町一丁目には内務大臣官舎や鹿鳴館(ろくめいかん)、帝国ホテル、内幸町一丁目には東京府庁や社交クラブの東京倶楽部(くらぶ)などがありました。
鹿鳴館は明治十六年(1883年)、政府によって現在の大和(やまと)生命保険株式会社(内幸町1-1-7)の場所に建設されました。外国貴賓(きひん)や政府高官などが集まり、舞踏会や演奏会で賑(にぎ)わいましたが、明治二十七年(1894年)、華族会館に払い下げられました。また、東京府庁は同じく明治二十七年(1894年)、内幸町一丁目から有楽町二丁目(ゆうらくちょうにちょうめ)(現・丸(まる)の内三丁目(うちさんちょうめ))へ移転しました。
昭和十三年(1938年)、区画整理により内山下町一丁目と内幸町一丁目の東側が合併して新たに内幸町一丁目となり、内幸町一丁目の西側は内幸町二丁目となりました。かつては上流階級の社交場であったこの町は、戦後、多くの企業が名前を連ねるオフィスビルなどに姿を変えました。

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