
町名由来板ガイド
連雀町(れんじゃくちょう)・佐柄木町(さえきちょう)
設置年月日:平成16年11月27日
所在地:神田淡路町2−8


神田川に架かる筋違橋(すじかいばし)は、中山道(なかせんどう)に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門(すじかいごもん)が設けられていました。門の内側、のちに八ツ小路(やつこうじ)と呼ばれた地に、連尺(れんじゃく)(物を背負う道ときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負(しょ)い子(こ))をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町(れんじゃくちょう)」の名前が付けられました。連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになりました。
明暦(めいれき)三年(1657)の大火「振袖(ふりそで)火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地(ひよけち)として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野(むさしの)に代地(だいち)を与えられ移住させられました。現在の三鷹(みたか)市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来します。
一方、安政(あんせい)三年の地図には、この界隈(かいわい)に土井能登守(どいのとのかみ)、青山下野守(あおやましもつけのかみ)などの上屋敷(かみやしき)がありました。明治維新後、これらの武家地は連雀町と佐柄木町(さえきちょう)に編入され、連雀町から遷座(せんざ)された出世稲荷(しゅっせいなり)神社は、土井家屋敷内にあった延寿稲荷(えんじゅいなり)神社とともに町内の鎮守(ちんじゅ)となりました。
明治四十五年(1912)、甲武(こうぶ)鉄道(のちの中央線)万世橋(まんせいばし)駅が、現在の交通博物館の地(江戸時代の八ツ小路)に開業します。駅前広場には明治の軍人広瀬中佐(ひろせちゅうさ)の銅像がそびえ、多くの市電の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝(ようしょう)として栄えました。また、寄席(よせ)の白梅亭をはじめ、旭楼など二十軒もの旅館が立ち並び、〓口一葉(ひぐちいちよう)がその著『別れ霜(じも)』において、「神田連雀町とかや、友囀(ともさえず)りの喧(かしま)しきならで客足しげき……」と、その賑(にぎ)わいを記しています。
大正十二年(1923)の関東大震災後、区画整理がなされ、連雀町、佐柄木町は、須田町一丁目と淡路町に改称されました。
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