ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

旧制中学校に行っていました。永代橋の中央て切ったり穴を開けたりして部品の形を整えて──戦争の時は学校に通っていたのですか。加工箇所の印になる線を引き、ボール盤ばんを使っおやじが継いでいました。仕事は大人の工員と一緒です。平らな鉄板にから始めて、店を持ち、戦争中は、その魚屋をと知ったのは最近のことです。を始めました。棒ぼう手てをかついで売り歩くところていましたね。ジェットエンジンの部品だったね。秋葉原移転後は自宅の場所で小売りの魚屋が何なのか分かりません。皆は秘密兵器と言っ仕入れに来る人たち向けの茶屋があったんです田区に移りましたが、市場のまわは関東大震災後に秋葉原に移り、りに26年は前何に軒はか大、軍場事へ物行をき作まっしてたい。まそしこたで。はパ「ーネツだ20」かとら書、かそれれたから都電で門前仲町に出て、そこから徒歩で工ばで茶屋をやっていたみたいです。ヤッチャバ佃つくだ島じまの石川島造船所越中島工場です。小川町るところにあったヤッチャバ(青果市場)のそ──どこでどんな作業をしたのですか。出てきて。最祖父が明治初は30(こ1の8近9く7、)多年た頃町に富山県からちょう大おお通どおりに出省の指示で。部の中学校が動員させたのではないかな。文部営んでいたそうですね。そこで学がく徒と動どう員いんです。中央商業だけではなく全──木下さんは、お住まいの場所で代々魚屋をすよ。だから僕は工業も少し勉強しましたよ。いる場合ではないと、途中で工業になったんで石川島造船所越中島工場で部品作りに従事商業学校です。でも戦争中に商業なんかやって現在もも平成暮ら23(し2て0い1ま1す)。年にまれてきた木下正義さん(閉め85歳、)。代夫々婦暮でら経し営てしきてたい地たで店のち、やがて居酒屋「魚うお竹」を開いて地域の人々に親し祖父が始めた魚屋を引き継ぎ、戦争中も商売を守った学徒動員で働いた日々きのしたまさよし木下正義神田司町インタビュアー松野和寛(区内在勤者)谷垣柚乃(高校2年生)大須賀龍(高校1年生)未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集98