ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

──その頃、ご自宅のあたりでは、空襲はどういう状況でしたか。はじめのうちは空襲と言っても1機くらいなんです。偵てい察さつなんですね。富士山を目印に来る。本当に高いところに1機だけでした。それからだんだん編隊で来るようになりました。3月10日の大空襲は大変なものでした。深川や両国の方がやられました。友達もいっぱいいたんですが、翌日に来ないから、ああ亡くなったんだな、と分かるんです。隅田川では川の中に逃げたのか、水死体もけっこう流れていましたね。焼死体もたくさん見ました。最初はびっくりしましたよ。でも、慣れちゃうんだね。だんだん怖こわくなくなっていくんです。夏になれば暑いし、その頃は僕らも隅田川で泳ぎました。平気でしたね。空中戦もよく見ました。B29を攻撃する戦闘機ですね。残念ながらやられた場合もあるし、日本のパラシュートが開かないで落ちちゃうこともあった。そういうのを見るとがっかりしていましたね。夜にB29が来た時は、探たん照しょう灯とうというので照らして撃つんです。これがけっこう当たりました。ロケットのようにバババッと火を噴ふいて、弾がB29に当たっても、落っこちない。そのまま進み、東京湾の方に逃げていく。なにか味方がいて、助けるような仕組みがあったんじゃないでしょうか。──空襲で命の危険を感じることはありましたか。怖さはあまりなかったですね。敵機が何時頃来るかは分かるんです。ラジオで「敵てっ機き来らい襲しゅう」って言う放送を聞き、「敵機、また来るよ。3時頃だってさ」って話すくらい。こっちに来るか関西に行くかも放送していたし。余裕と言うのもおかしいですが、そういう会話が飛び交っていました。B29の大きさを見せるため、日比谷公園で展示もしていました。見に行きましたよ。大きいね、やっぱり。日本の戦闘機が、空中でB29の上に乗っかっちゃったという話も聞きました。それくらい大きいってこと。あの時は人もずいぶん集まっていました。──工場は狙われなかったんですか。工場がある佃島では、人がいっぱい死んだようなことはありませんでした。1度、機き銃じゅう掃そう射しゃがあって1人亡くなりましたが、それくらいです。軍ぐん需じゅ工こう場じょうなんですけれど、爆弾は落ちないし壊されてもいません。やはり民家を狙ったんでしょうかね。家が木と紙でできていますから。空襲初期の頃に、焼しょういだん夷弾が落ちたら火がポンと落ちて、雪が降っていたので、その塊かたまりをポイと投げたらすぐ消えました。なーんだと思っていたんです。でも、それから材料を変えたんですね。空中で火がついて、ゴムみたいなものが燃えながら屋根に落ちて。これが水をかけても消えないの。どんどん燃えてしまう。消火器もないでしょう。消火作業といったらバケツと水だけです。火が屋根にこびりついちゃうんで3月10日の空襲では国会議事堂の辺りまで焼け野原になった学徒動員徴兵による労働力不足を補うために学生・生徒が軍需産業などに送り込まれた。昭和19年7月には動員対象を中学低学年・小学校高等科にまで拡大、1日10時間労働、中学3年生以上の男女の深夜作業が実施された。軍需工場戦争に使う飛行機や戦車を作る工場。大戦不可避の予想から昭和15年5月、陸海軍工場事業場管理令施行規則が施行され、軍需工場の国家管理が強化された。一般工場は主力を軍需品生産に転換、町工場でも兵器作り。中学生以上は勤労動員され、生産に従事した。100未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集