ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

すかね。ちょっと触れると、そこがバーッと燃えてしまうんですよ。疎開先が焼けて自宅は残った──ご自宅のあたりは被害が少なかったんですか。このあたりは大きくやられたことはありませんでしたね。焼夷弾は多かったですが。3月10日夜の本所・深川の空襲では、消防隊が車に乗ったまま焼けて犠牲になったなどの話を聞きました。あれはすごかったです。3月10日の時は、東京はかなりやられました。ほとんど平らになっちゃって、家から両国橋も見えたし、国会議事堂もすぐ近くに見えました。──このあたりは焼け残って、まわりは議事堂の方まで焼け野原なんですか。コンクリートの建物は神田警察、学校、島津製作所くらいで、あとはだいたい木造ですからね、燃えますよ。それに、学校や駅がやられないよう、そのまわりは強制的に建物を倒していました。柱にひもをつけて、10人や20人がかりで引っ張るんです。他に道具もないから手で壊すんですね。弁べん償しょう金きんみたいなものも多少はくれたんじゃないでしょうか。強制ですけれど。うちは学校の前ですが、ちょっと距離があるから、それはありませんでした。──疎開はされなかったんですか。弟たちは小学校の学がく童どう疎そ開かいで高崎のお寺に分散していました。食べ物がなく、畑のキュウリを盗とって怒られたと言っていました。家族でも、まわりが疎開しろ疎開しろと言うんで、一時、新宿の中井で過ごしました。あの頃は売り家や貸し家がたくさんあったんです。まわりには畑もたくさんあって、いい家でした。僕はそこから越中島に通いました。でも疎開先の家が焼けたんです。隣のおばちゃんが電灯をつけていたからだと人は言っていましたが。焼夷弾です。さっき言ったように消えない。どんどん燃えていって。私たちは疎開先が焼けて、神田の自宅は残ったんです。それで親たちは埼玉の幸さっ手てへさらに疎開し、僕は工場の仕事があるから姉と2人で神田の家に戻りました。戦後は配給の魚を売り歩いた──戻った家はそのままだったんですね。でも物はほとんど残っていません。疎開先に持って行って丸焼けになっちゃったから。自宅も貸していましたし。戻った時も借りている人がいました。3軒長屋のうちの2軒がうちなんですが、姉と帰った時は隣に他の家族が住んでいました。そういう家が当たり前だったんです。だいたい1軒が7坪つぼで、うちは2軒だから14坪。小さい家は5坪くらいのところもありました。1階に小さい部屋と土間、台所、2階も部屋があって、そこに10人くらい住んでいるんです。子供は5~6人いて、押し入れの中に布ふ団とんを敷いて寝ていました。今のように、1人に布団1戦後、魚の配給をしていたときに使っていた鐘101未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記暮らし