ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

──兵隊さんが年々若くなるというのは。年々といっても短期間です。4年間のアジア太平洋戦争の後半、どんどん戦せん局きょくが悪化していって。幼稚園児での記憶ですから定かではありませんが、最後の1年から2年の間でしょうか。最後は中学生も動どういん員されたくらいですから、おじさんからお兄さんになっていくという印象でした。──靖国神社は子供にとっても特別な神社でしたか。そうですね。まず戦争の最初の頃、天皇がお参りに来られました。でも姿を見てはいけないんです。神社の石垣沿いには商店に向かって憲けんぺい兵がずらっと立っているの。のぞき見る者がいないようにするためです。写真館の2階も全部カーテンを閉めさせられました。でも私、幼稚園児だから、パーッと家から飛び出したんですね。そしたら憲兵が飛んで来て「何やっとるんだ」と怒られました。父がすごく謝ったんですが怒どな鳴り散らされ、近くのよく知っているお巡りさんがすっ飛んで来て謝ってくれ、やっと収まりました。叔父は場所も知れない地で戦死──身近な方も戦争に行かれましたか。叔おじ父です。母には2人の弟がいて、1人は体が弱くて家にいましたが、もう1人は体格も良く、中卒で築地の魚うお河がし岸に入って、マグロの卸おろし問どん屋やに勤めていました。本当に元気な人で、私もかわいがってもらっていました。召集されたのは戦争の終わりの頃、叔父は20代前半、私は小学1年になっていたと思います。出征する人は赤羽駐ちゅう屯とん地ちに全員集められていたのですが、そこを家族皆で訪ね、最後の旅だと伊いかほ香保温泉に1泊旅行に行きました。お風呂に入り、その叔父が、温泉街の露ろてん店で買ってきてくれたトマトにお砂糖をかけて食べました。何もない時代に食べた、その味は今も忘れられません。叔父が亡くなったのは南なんぽう方というだけで、どこなのかは分かりません。正義感のある人だったから、仲間が殴なぐられるのを見ると、上官にも臆おくせず抗議したり、仲間を助けたりしていたと聞いています。だから前線に送られたのだそうです。──戦死が分かったのは知らせがあったのですか。白木の箱が返されました。お骨こつもない。髪の毛すらない。「中村金次郎霊」という紙キレ1枚が入っているだけです。母はわーっと泣いて。私は子供でしたが、祖母が縁側に行ってその箱を抱き、叔父の名を呼びながらずっと泣き続けている姿を見ていました。紙の他は何も入っていない箱を抱いてです。私は靖国神社に叔父が英霊として祀まつられているとは思えないんです。幼稚園からカトリック系の白百合学園でしたが、校長は靖国の前を通るたびにお辞じぎ儀をするようにと指導していまし憲兵旧陸軍兵科の1つ。陸軍大臣の管轄下にあったが、アメリカのMP(陸軍)より権限の範囲は広く、陸海両軍内の警察業務を担当したほか、内務、司法省にも所属した。軍機保護、徴兵・召集などの法令施行、軍紀・風紀の監視、軍人軍属関係の犯罪捜査などにあたり、軍備拡張に伴い強化された。千鳥ヶ淵戦没者墓苑昭和34年に国によって建設され、戦没者の遺骨が埋葬されている墓苑。第二次世界大戦において広範な地域で戦闘が展開されるなかで、海外の戦場で多くの人々が戦没された。戦後、持ち帰られた遺骨のうち、名前の分からない戦没者の遺骨が納められた「無名戦士の墓」であるとともに、慰霊追悼のための聖苑でもある。104未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集