ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

た。でも私はできなかった。今もそうです。無名戦士の墓である千鳥ヶ淵戦没者墓ぼ苑えんには、拾ってきた兵士たちのお骨が祀られているので、もしかしたらそこに叔父もいるのではとも思います。また最近、「中村」と書かれた飯はんごう盒を南方現地の人が使っているという新聞記事を読み、叔父のものではないかと思ったりもします。もちろん200万人も亡くなった中に、「中村」なんていっぱいいるでしょう。まだ収集しきれていない遺骨もどれほどあるか。それを考えると、まだ償われていない戦争の責任って誰にあるのだろうと思いますね。辛つらい日々を送った疎開先──学校では疎開はされたのですか。学童疎開はありました。昭和19 (1944)年、小学2年生のときです。学校が強ごう羅らに設けた分ぶん教きょう場じょうに行きました。人数は少なかったですよ。家族で先に疎開している人も多かったから。そこでは辛かったですね。上級生が先生と一緒になっていろいろ注意してくるのが低学年には辛かった。毎日毎日、アレしちゃいけない、コレしちゃいけないと。早くお母さんのところに戻りたいと思うばかりでした。──食事はどうでしたか。修しゅう道どういん院の一角だったでしょうか、テーブルもないので長い板を机にして、向かい合わせで食べていました。食料は乏しく、出てくるものはご飯と味み噌そ汁しるとらっきょう、アミの佃つくだ煮にくらい。らっきょうが苦手な子もいて、私はらっきょう好きだったので机の下から回ってくるの。先生の目を盗んで食べ、器だけ返すんです。ご飯も白米ではないですよ。芋が入っていたり麦が入っていたり。小さなどんぶりに入っていて、おかわりはできませんでした。山では薪まきを拾って、それでご飯を炊いたりお風呂を沸わかしたりしていました。月に1回くらいは親が面会に来ました。おやつの差し入れは禁止でした。持って来てもらえない子もいるから。でもやはり親心で隠して持って来るんです。おやつと言ってもお芋ですよ。そして皆、それを脱衣所でこそこそと食べる。たぶん先生も分かっていて目をつぶっていたんでしょう。──終戦までそこに疎開していたのですか。分教場にいたのは数カ月くらいでしたか。昭和20(1945)年5月25日の空襲で家が焼け落ちるのを見ましたから。その後、栃木県小お山やま市に家族で疎開して、そこの小学校に通いました。住んだのは、親が懇こん意いにしていた人の持ち物で納屋みたいなところでした。空襲のない田舎だから、学校も普通に授業していたんです。でも、都会から来た子って偉えらそうに見えちゃうんでしょうか、そんな気はないんですが、なにかにつけてもはじかれるんですよ。──都会の子はいじめられるんですか。例えば家から学校までの間、30分か40分くら千鳥ヶ淵戦没者墓苑。第二次世界大戦の戦没者の遺骨のうち、遺族の手に渡せなかった遺骨を埋葬している105未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記暮らし