ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ページ
110/214

このページは 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 の電子ブックに掲載されている110ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

いなくなっていました。うちの父はたまたま召集されず、もう1人若い男の人もいて、このあたりが空襲されると2人で火を消していたのは鮮せんめい明に覚えています。3月10日は下町が焼け野原になりました。皆、下町の方から山の手に逃げて来ました。靖国通りも通ります。空襲の翌日でしょうか、焼け出されて着の身着のまま、子供連れで歩いていくんです。その時はうちの写真館は大丈夫でした。それで祖母はおにぎりを作り、写真館の前を行く人に配ったんです。──それはどうしてなんですか。どうしてだと思いますか。──そういう係だったんでしょうか。係ではないの。うちの祖母は気前のいい人でね。「家の人の口をつねっても人にあげてしまう」と言われていました。小あずき豆が手に入れば、お汁しる粉こを作って近所の子を集め、お汁粉パーティをするような家でした。だからその時も、家の防ぼうくうごう空壕にお米があったんでしょう。おにぎりを作って、皆にあげようと考えたんですね。──続く5月の空襲では、家も焼けたんですね。あの日、弟と私は祖母に手を引かれ、焼しょう夷い弾だんがわーっと降ってくるのを避けながら逃げました。でも逃げると言ってもどこへというものもありません。防ぼうくう空頭ず巾きんに水をかけても、炎の熱気ですぐに乾いてしまいます。それでまた水をかけようと、持って出たバケツを見ると、取っ手だけになっていて本体が残っていない。それい森の中を通るんです。今思えば、森というより林くらいだったかもしれません。それが、都会から来たまだ小さな子にはすごく怖こわい。通学を心配した親が、連れて行ってくれる近所の上級生に10円あげるんですね。するとしばらくは一緒に歩いてくれるけれど、1カ月くらいで効力が切れ、森に置き去りにされて泣きながら家に帰る。それでまた親がそおっと10円を渡す。そういうことの繰り返しでした。──そこは食べ物は豊富だったのでしょうか。いいえ。何もないから畑のキュウリをもぎったりしました。昨日播まいた人じんぷん糞が乾ききっていないところに入って、バリバリ食べたりしていましたね。けれど東京よりはあります。九段に戻ってからも、ここにお米などもらいに行きました。私も行きましたよ。上野だか市ヶ谷だかにお巡りさんが立って検けんもん問していて、大人は見つかると没ぼっ収しゅうされるんですが、子供なら小さいから目が届かないでしょう。それで背中に背負ったまま、靖国神社に向かって一目散に逃げる、逃げる。けっこう重かったんですよ。でも当時は必死でしたね。大空襲を逃れた人々への「おにぎり」──大空襲の時は東京にいましたか。3月10日、5月25日とも、学童疎開先から九段の家に帰宅していました。空襲が多くなった頃、男は出征していて、消防団には女子供しか5月25日の空襲で逃げた社務所のある靖国神社106未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集