ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

終戦の1年前の昭和19年の8月、29歳のときに召集令状、俗に言う「赤あかがみ紙」が届きました。「横須賀の海兵団に入団すべし」という内容です。前回の徴兵検査では兵隊には不向きだと免除になったのに、私みたいな丙種を召集するということはよほど兵隊が足りない状況だ、これは日本も大変だぞと感じていました。そして数日後には出しゅっ征せいとなりました。──召集令状が届いたとき、ご家族はどのような様子でしたか。そのとき、家内はお腹なかが大きかったんです。人前ではそんなことはありませんが、台所ではめそめそ泣いていました。戦争に行くということはまず戦死を考えます。もう帰ってこないのだな、今こん生じょうのお別れなのだなという切せっ羽ぱ詰つまった思いだったのでしょう。──根岸さん自身はどのような気持ちだったのでしょうか。それはもう無むが我夢む中ちゅうですから、もちろん泣いたりはしません。同じように兵役免除後に召集された学生時代の友達2人と一緒に四ツ谷駅まで向かいました。──見送りはどのような感じだったのですか。愛国婦人会や国防婦人会、近所の方たちが日の丸の旗を振り、「歓かん呼この声に送られて?」の軍歌で見送られ、四ツ谷駅では在ざい郷ごう軍ぐんじん人の方たちに激げきれい励されました。ただ、以前はもっと賑にぎやかにやったのですが、終戦が近くになると出征する人も少ないし、あまり派手にはやらなかったですね。四ツ谷駅で省しょう線せん電でん車しゃ(国電=現JR)に乗り、横須賀へ向かいました。シャッターは全部降ろされて、中に乗っている人が分からないようになっていました。軍専用でしたから、横須賀までノンストップでした。──横須賀海兵団はどのようなところだったのでしょうか。横須賀海兵団に着いたら、係りの人が「どうもご苦労。どうぞこちらへ」と兵へいしゃ舎に案内してくれました。そして2日くらいは特に何もせず、食べる物だけはちゃんと食べさせてもらって過ごしました。海軍は就しゅう寝しんのときはハンモックなんです。ところが私は背が低いものですから、つったハンモックにのるのが大変で。そのうえ、天井に暖房用のパイプが通っているのですが、若い下士官がそこに寝ていて、私たちが何をしゃべるのか聞いているんです。召集された所帯持ちの中には愚ぐち痴をこぼす奴やつがいるんですよ。どこで何を聞かれるか分からないから、あまりしゃべらないほうがいいと気をつけていました。真夏でしたから喉のどが渇かわいてしょうがなく、トイレの水も飲みました。そうしたら、お腹を下して痔じになってしまったんです。3日目に兵隊にとるべきかどうかという検査がありましたが、軍医に「君は体は丈夫ではないし、痔にもなっている。これではとうてい無理だから、不合格のところへ入りたまえ」と判定を下され、横須賀海兵団に出征時の根岸さん赤紙旧軍が出した召集令状の通称。〝徴兵・懲役1字の違い〟といわれた令状の紙の色が赤かったことから、こう呼ばれた。111未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記暮らし