ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

田た工場で働きながら、夜間は、東京工業大学のしかし五体満足な若者が兵隊にも行かずにいルエンジンなどを製造していた新潟鐵てっ工こう所じょの蒲かまたのです。分かりません。そこで当時、潜水艦のディーゼでも引き止められ、志願したくてもできなかっ仕事についていないと、いつ徴ちょう用ように採られるかの同僚たちからも頭を下げられる。家でも職場で働いていたのです。しかし軍需産業に関わる戦争が始まるまでは、私も父を手伝って氷屋いば、か「りお。願い10代だ後か半らの志若願者しはな私いだでけくにれな」っとて工し場ま戦前の自宅(後右側)前にて2人、妹2人の8人で暮らしていました。若い女性や親のような年代のおじさんおばさん昭和2(1927)年に生まれ、両親と姉、兄た軍需工場でも、働いているのは女子挺てい身しん隊たいのの「旭氷業」は、そこから取っています。私は人が兵隊に行き、残った息子は私だけです。ま旭町と合併して神田旭町になりました。会社名ありました。しかし両親にしてみれば兄たち2(1934)年の町村合併で隣の神田?ろう燭そく町、それでも志願して、戦地へ行きたい気持ちはもとは永なが富とみ町という町名でしたが、昭和9りました。ね。まれの私は、ちょうど徴兵になる前に終戦にな4(1915)年から続く氷屋さんだそうです葉県松戸で通信兵をしていました。昭和2年生──広瀬さんのご実家は、内神田3丁目で大正長兄は徴兵されてシンガポールに。次兄は千──お兄さんたちは、戦争に行かれたのですか。「まだ戦地に行かないのか」と言われて付属機械部に通うようになったのです。事を作るなど多くの貴重な体験をなさいました。ひろせのりみつ広瀬儀光内神田巣す鴨がもプリズンでコックとして働き、東条英インタビュアー需じゅ工こう場じょうで働いていたという広瀬儀光さん(機88の歳最)。後戦の後食は昭和2(1927)年生まれのため徴ちょう兵へいはされず、軍ぐん松野和寛(区内在勤者)伊達悠二(大学4年生)三輪田颯真(中学1年生)巣鴨プリズンで東条英機が最後に望んだ〝サンマ〟の塩焼未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集116