ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

──太平洋戦争末期には、石油も足りなくなっていたと聞いています。日本軍は、飛行機のガソリンもなくなって、最後には松の根っこをしぼった油まで使うという話ですよ。──松ヤ二が燃えるのは知っていますが、ススや匂いがすごそうですね。けっこう質の高い油だったそうですよ。しかし松の根など、日本中の松林を掘り返しても大した量は取れません。このように戦争末期というのは、まあみじめな状態だった。今の若い人には、想像もつかないことでしょうが。──日本の技術は、連合国に比べて遅れていたのでしょうか。そうとばかりは言えないと思います。たとえば私が通っていた学校の校長は、八木アンテナで知られる八木秀次先生でした。八木先生は電波探知機の研究を進めていました。私たちの授業でも「マッチ箱ひとつくらいの装置で、大やま和とや武む蔵さしクラスの戦艦をひっくり返すことができる原子爆弾」の話をしていました。ところが日本の軍部は、その技術を採用しなかった。そして連合国側が先に、電波探知機を完成させてしまったのです。勤めていた工場で作っていた潜水艦や魚ぎょらいてい雷艇の高速ディーゼルエンジンも、かなり高い品質のものを作っていたと思います。しかしアメリカ軍が撃げきちん沈した艇ていからエンジンを持ち帰り、ほとんどの技術を真まね似されてしまった。高射砲や、零ぜろ戦せんだって、みんなそうですよ。自動車産業が盛んだったアメリカは、自動車工場を軍需工場に切り替えて、日本の技術を参考にして勝るものを開発して逆ぎゃくしゅう襲してきました。また撃墜された飛行機や爆弾を見て思ったのは、アメリカの徹底した合理主義です。日本の製品というのは、たとえば軍用のエンジンでもすべてのパーツを美しく研けん磨まします。しかしアメリカは、たとえばピストンが摩ま擦さつするような大事な部分はきれいに磨くけれど、他の部分は真っ黒にススがついたままです。──よくいえば、日本の職人魂なのでしょうが。しかしムダといえばムダなのですよ。また残念なのは、そうした素晴らしい腕を持った熟練工の人たちまで日本軍が次々と徴兵してしまったことです。そして軍馬の世話のような、まったく畑違いの仕事で酷こく使ししていった。その人がその人なりにできる力を生かしていけばいいのに、まったく馬鹿げた兵隊さんのムダ使いではないでしょうか。──終戦の玉ぎょく音おん放ほうそう送は、どこで聞かれましたか。工場の事務所です。ラジオは雑音がひどかったし、勅ちょくゆ諭も言葉が難しくてよく分かりませんでしたが、続いて放送された解説で「日本は降伏したんだ」と分かりました。軍需工場でしたから職場はその日のうちに解散になり、工場も閉へい鎖さされてしまいました。私は家に帰る途中、皇居前に行って広場に正座をし、玉砂利に頭をこすりつけて泣きました。周囲にも同じような蒲田工場機械部整備課で働いていた頃の広瀬さんと同僚新潟鐵工所蒲田工場の入門証118未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集