ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ページ
124/214

このページは 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 の電子ブックに掲載されている124ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ていました。余った食材は自宅へ持って帰ることができました。──それは、ご家族にも喜ばれたでしょう。ええ、「おかげで買い出しに行かずにすむ」と感謝されました。あと、たとえばメリケン粉(小麦粉)の入っていた袋。アメリカ製の粉袋は丈夫ないい生地でできているので、洋服屋に持っていって洋服に仕立ててもらうんです。たとえば袋6枚で背広が1着できるなら、倍の12枚を持っていって、残り6枚を「工こうちん賃だ」といって渡すわけです。まいをしていた豊島区の椎名町から池袋へ出て、広場で待っていると進しん駐ちゅう軍ぐんのトラックが人を集めに来るのです。それで公共の建物のトイレ掃除や、がれきの片付けなどをして日ひ銭ぜにをかせぎました。職業紹介所にも行ったけれど、以前のような機械を扱う仕事はまったくない。しょうがなくて、「進駐軍の仕事でもいいからお願いします」と頼んで、紹介されたのが巣鴨プリズンだったというわけです。──料理は得意だったのですか?いいえ、まったくできません(笑)。ですから最初はヘルパーで入って、掃除から始まり、1年後にコックに昇格したのです。職場にはコックとヘルパーが10数人いたでしょうか。巣鴨プリズンはもともと巣鴨拘こう置ち所しょでしたから、建物は古くて汚く、設備も貧弱でした。キッチンには直径1メートルほどの蒸気釜がまが6台備え付けられており、それで700人ぐらい居たA級・B級・C級戦犯たちのご飯やおかずも全部作っていました。食材は進駐軍が明治屋を通じて買い入れていましたから、けっこういいものが使われていましたよ。アメリカ本土からも、進駐軍の大量の食材が運ばれてきました。施設の外では多くの人が、田舎へ買い出しに行ったり、闇市でなんとか食料を手に入れようと苦労をしていた時代でしたから、非常に複雑な気持ちではありましたね。とはいえ厨房で働く私たちは、3食食べメリケン粉の入っていた袋で作った洋服巣鴨プリズン第二次世界大戦敗戦後、豊島区西巣鴨(現・豊島区東池袋)にあった東京拘置所を連合軍が接収し、戦争犯罪人として逮捕された日本人政治家・軍人を収容した施設。極東国際軍事裁判により死刑判決を受けた、東条英機をはじめとするA級戦犯7名の処刑が執行された。現在、跡地にはサンシャインシティが建っている。120未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集