ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

のためにわれわれはここまできたのに、なぜやらない」と。当時は死ぬことしか考えていませんから。でも終戦を実感して、「これからは、何でも自分でやっていくほかない」、そう思いました。──それから復員したのですね。私が復員したのは昭和20( 1945)年の10月です。栃木の実家へ帰りました。東京へ行く場合、飛行機の搭乗員は東京駅か上野駅でアメリカ軍に捕まって中国へ連れて行かれると言われていました。なぜかというと、日本に残っていた飛行機はすべて中国へ持っていくため、中国人に指導する搭乗員が必要だからということでした。ですから、搭乗員は絶対に軍服を着て帰ってはいけないと言われ、現地で農家の人から分けてもらった服を着て復員しました。何も持たない代わりに、拳銃1丁と実弾100発を渡されました。「万が一捕まったら、1人でも2人でも殺して逃げろ。どんなことがあってもうちまでたどり着け」ということです。私も東京駅でアメリカ兵に「軍隊の経験があるか」と質問されました。「あることはあるけれど、今は関係ない」と答えましたが、検査されました。拳銃はパンツの中に隠しておきました。それくらい厳しかった。復員して帰ったらおやじに、「こんなものがあったら物騒でしょうがない」とすぐに拳銃はたたき壊され、弾はすべて川に捨てられました。──復員されたらご家族は喜んだでしょう。終戦の日に出撃命令が出た──その後は、どちらへ配属になったのでしょうか。昭和19(1944)年の暮れ、愛知県の碧へきかいぐん海郡明治村(現・安城市)にある明治航空基地へ配属になりました。「本土決戦が間近であるから」と、鹿屋から20名、転勤命令が出たのです。ここは特別な基地で〝二一〇(ふたひとまる)〟という暗号数字で呼ばれていました。明治航空基地に配属になってから出撃はしませんでしたが、終戦があと1カ月遅かったら私も生きていないでしょう。でも、あの当時はいつ死んでもいいと思っていました。──玉ぎょく音おん放ほうそう送はどちらで聞かれたのでしょうか。明治航空基地で聞きました。「われわれは納得しない」という空気でした。あの日はちょうど、マッカーサーが輸送機で相模湾に着水することになっており、それを撃墜しろという命令が隊長から出ました。ですから、私たちは全機エンジンをふかして待機していました。実際に飛び立つというときに、司令から「絶対に飛び立ってはならん。そんなことしたら国こくぞく賊になる。飛び立ったら反対にわれわれが撃墜するぞ」と言われ、それで中止になったのです。──玉音放送を聞いたときはどう思われましたか。そのときは残念だと思いました。「本土決戦130未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集