ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

なりました。栃木の小山から東京まで通勤していました。空襲になると大宮駅で降ろされて、民家に入ったり、軒下に入れてもらったりして避難した記憶があります。──軍事省ではどのようなお仕事をされていたのでしょうか。軍事省は軍関係の仕事ですが、私は主に機密文書などのタイピストをやっていました。肩に腕章を付けた偉い方ともお話をしたりしてけっこう忙しかったです。終戦後、九段南4丁目で写真店を始める──終戦後はどうされたのでしょうか。東京へ出てきて九段南4丁目で写真店を始めました。その当時、九段南4丁目のあたりは焼け野原で家が3軒くらいしかありませんでした。市ケ谷駅前も草ぼうぼうで、なにしろ追いはぎが出たくらいです。進しん駐ちゅう軍ぐんのピストル強盗も出て、近所が荒らされることもありました。家内はその頃、運輸省に勤めていたのですが、女1人で出歩いていると危ないから駅まで迎えに行っていました。──終戦後の食糧事情はどうでしたか。飛行服などの軍服はすべて食糧に換わりました。終戦のときは、冬の飛行服1着で米1俵、夏服だと半分、飛行帽はサツマイモ1袋と交換できました。それくらい食糧が逼ひっぱく迫していました。私は男3人兄弟の末っ子で、3人とも軍隊へ行きました。長男は司令官として満州へ行き、次男は北支(中国北部)で隊長をやっていました。次男はしばらくしてから帰ってきましたが、長男は終戦のときにソ連に捕まって3年間シベリアに抑よく留りゅうされました。私が最初に復員したのですが、私を見るなりおふくろが開口一番、「なんでお前は生きて帰ってきたんだ」と。「長男が帰ってくるのはいいけれど、お前はお国のために行ったんだから、白木の箱に入って帰ってくるのが当たり前じゃないか」と言われたんです。いまだにそれが忘れられません。周りでは1人しかいない息子が戦死する家もある中で、息子が3人戦地に行って全員帰ってきたのはうちだけでした。おやじはそうは言わなかったけれど、おふくろは気丈な性格で、「世間体が悪くて表を歩けない。よそはお国のために戦死しているのに、うちはどうして誰1人としてお国のために死んでいないんだ」と。──お母さんにそのようなことを言われたときはどう思われましたか。「とにかく生きて帰ってきたのだからいいじゃないか」と思いましたよ。でも10年くらいたってから、おふくろがはじめて本心を言いました。「うちは運がよかった。男3人とも生きて帰ってきてくれて、本当によかった」と。──奥さまの多美江さんにお聞きしたいのですが、戦争中はどうされていたのでしょうか。私は気象庁に入り、それから軍事省に配属に131未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記軍隊