ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

でもありました。神保町から九段下に向かう通りにも闇市がありましたね。たばこも需じゅよう要が高かったです。千葉の田舎でたばこを頼まれ、芝浦の埠ふ頭とうまで調達に行くこともありました。芝浦は焼け野原だったのですが、夜行くと米兵がいるんです。そこへ行き、「ギブ・ミー・シガレット」と言って5?10本買ってくる。田舎に持って行くと、飛ぶように売れました。──闇商売は、警察の取り締まりも厳しかったのではないでしょうか。物ぶっ価か統とうせいれい制令が敷しかれていましたから、経けいざいけいさつ済警察というのがいました。千葉で米などを調達して汽車に乗るでしょう。そうしたら駅に警察が張っていて没ぼっ収しゅうされてしまうんです。千葉からの汽車は両国駅に着きます。千葉でやられなくても、両国駅で没収されることもありました。経済警察は汽車の中に入ってくるんです。「網棚に乗っている荷物は誰のものだ」と。そこでみんな没収されてしまいます。荷物はもちろん、罰ばっきん金も取られるから、車内の通路に米や豆をまいたこともありました。そうすると誰のものか分からないでしょう。千葉はしょうゆの産地でもありますから、汽車で運んできてしょうゆも売りました。しょうゆも統制に入っているんですね。当時は、本物のしょうゆの容器がありませんでした。その代わりに1斗樽にしょうゆを入れて代用しょうゆという名目で販売したのです。そうしたら、本す。私はただ運がよくて、今こうしてここにいられるのだと思います。闇やみ商売で家族の命をつなぐ──終戦後の生活についてお聞かせください。終戦後、九段下に帰ってきたら焼け野原でした。5月25日の空襲で自宅も焼けていました。父親の実家が銚子にあり、両親が疎そ開かいしていましたから、しばらくは銚子で生活しました。その後、東京に戻って来ましたが、とにかく食糧難で大変でした。千葉で農家に食料をもらったり、買ってきたり売ったり。あの頃は誰もが闇で売ったり買ったりしていました。米をはじめ、味みそ噌、しょうゆ、油、砂糖などみんな配給ですから、とにかく闇で売っている物を食べないと生きていけませんでした。私も闇商売をやっていました。──ご両親の疎開先だった銚子と東京を行き来しながら、闇商売をやっていたのですね。今のターミナル駅のような大きな駅には必ず闇市がありました。闇市では露店のような店を出して売っていますから、そこへ卸します。ビール瓶びんの空き瓶を3本持って行けば、ビールが1本もらえました。植木の脇などによく空き瓶が刺さっているでしょう。あれを持って行きましたよ。当時はたしか、卵が1個5円か6円だったかな。餅もちも2枚で5円くらいでした。サンマが高くて、1尾30円しました。闇市に行けば何闇市があった神保町から九段下に向かう通り闇市国の統制に外れ、非合法な取り引きを行う店が集まる市場。終戦後、政府の統制物資が底をつき、配給制度もおぼつかず物資が不足した。そのような逼迫した状況下、駅前や焼け跡、建物疎開による空き地を不法占拠し、バラック建ての店を構えた闇市が開かれていた。138未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集