ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

第2部体験記軍隊部隊間でやり取りするモールス信号や極秘事項月から、相模原の陸軍通信学校へ分ぶん遣けんされて、う通信兵に分かれます。私はさらにその年の9電柱を立てたりする建築兵と、主に通信を扱──訓練は全員、同じような内容なのでしょうか。からもずいぶん役立ちました。の経験は、戦後に仕事で人を使うようになって理不尽なことはしなかったからね。そのときでしょうね。──永井さんは、きっと後輩たちにも慕われたのことは、通じるものです。「分かったか」とだけ言った。それでたいていて手は上げるけれど、顔のすぐ前で寸止めしてした。「目をつぶれ、歯をくいしばれ」と言っなったとき、下に入ってきた人を殴りませんでんておかしな話でしょう。だから私は高年兵に度が悪い」っていうだけで殴ってくる。順番なたから、殴らなきゃ損だ」みたいに考えて、「態古こ参さん兵へいには悪いのがいてね、「自分も殴られです。こと体をひねって力を逃がす方法を教わるわけり所が悪いと鼓こ膜まくが破れてしまうから、うまいいからつい逃げてしまうでしょう。しかし当たを教わるんです。向こうが殴ってくるとき、怖軍隊に入ると、初しょ年ねん兵へいはまずビンタの受け方──当時の思い出には、どんなことがありますか。私たちが作った電柱が残っていますよ。ものですよ(笑)。山中湖に向かう道路の脇には、でを学びました。今も電線の曲げ方などうまいヤンゴン)近くの村に、私たち通信兵が6人はじめはラングーン(現・ミャンマーの都市──任地はどこだったのですか。小屋ばかりで、川にはワニがいましたよ。たく気日温本もとは40度様近子くがあ違るう常。夏ニのッ国パでヤすシかでら葺、ふいまたっ──インドシナの印象は、どんなでしたか。船で川をさかのぼっていきました。上う陸20日た92連昭しにめ隊和、プににそノ広召18(こン島集1943)かペのさらン宇れうは(品じ、な現現港地・か25日年のカらに5人ン出は月をボ港ビルマ雇ジし10日っアまにたのし戦独手首た線立漕都。へ有こぎ) 6向線のに月か第──戦地に向かわれたのは。仏像とお経がきっかけで村人と交流て家に帰ってきました(笑)。軍隊はもう嫌だったから、「結構です」と言っ残れば下士官になれるぞ」と誘われたけれど、に延びていました。除隊になるとき「このまま昔は2年でしたが、私が入隊した頃には3年なっていますね。──昭和17(1942)年に1度、満期除隊にす。宮(崇たか仁ひと親王)殿下をお教えしたこともありま校で士官候補生の教育にもあたりました。三笠そのときに学んだことをもとに、陸軍士官学を含む暗号の解読などを専門に学びました。昭和15年、電信第1連隊に入隊した頃(右は通校時代、左は一等兵時代)の永井さん141未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集