ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

うですね。現地の人に混じって暮らせる人は、そうしたほうがよかったでしょう。映画にもなった『ビルマの竪たてごと琴』のような例は、私の周りでもたくさんありました。──ラングーンまでは、どうやって戻って来たのですか。泰たいめん緬鉄道まで数百キロメートルを歩いて何とかたどりつき、そこからラングーンまで鉄道で戻ってきて、さらに南の方のモールメンのゴム園で終戦を迎えました。そこで武装解除をし、そのまま連合国の捕虜収容所となったゴム園に翌年まで抑留されたのです。──収容所の生活も、ご苦労が多かったのではないでしょうか。アーロン収容所など人種差別的な扱いをする例もあったと聞きます。私の場合は、そうでもなかった。終戦から1週間くらいはイギリス軍も警戒していたけれど、じきに日本軍が反逆しないと分かってからは紳士的な待遇をしてくれたと思います。道路や電線を直して食糧の補給を受けてね。抑留の最後の頃には、イギリス軍とも仲良くなって一緒に野球をしたりしたものです。──収容所を出られたのは。昭和21( 1946)年の6月に、モールメンの港から連合国の駆く逐ちくかん艦か何かに乗って出発しました。ビルマから戻る第1号の交換船だったそうです。3000人くらい乗れるような大きな船に、元日本兵がぎっしり乗り込んでいまし集落の近くにいるネズミは米を食っているから、太ってうまかったですよ。丸焼きにして毛をむしって食べたものです。──病気で亡くなった人も多かったそうですね。マラリアやデング熱は当たり前。しかし病気になっても野戦病院など、はるかかなた。行くのに3日も4日もかかるんです。戦死にしても餓死や病死にしても、遺体を焼いてもらえたら良いほう。多くは小指だけを短剣で切り取って、それを遺骨として持って帰るしかなかった。──永井さんは、よくご無事でしたね。上官にも「お前は悪運だけは強い」と言われました。自分でもそう思いますよ。捕ほ虜りょ収容所での思い出──この作戦が負け戦だと、いつ頃から気がついていましたか。ずいぶん早くから、危ないとは思っていましたよ。私たちは通信兵ですので、前線と切迫したやり取りをしているのを漏れ聞いてしまいますから。──それでも進軍を続けていたお気持ちは。それはね、しょうがないです。命令なんだから。その時の気持ちというのは、兵隊に行ったことがない人でないと本当のところは理解できないと思いますよ。──撤退中には、軍から離れる方も多かったそ当時のミャンマーの紙幣144未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集