ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

て、すべてが死んだような状態でした。よくここまで復興したと思います。我が慢まん強いという日本民族の特色からでしょう。──終戦後はどんな暮らしでしたか。16歳で終戦になり、悲惨な状態がはじまりました。まず、とにかく食糧難です。配給があったのは大豆の搾しぼり滓かす。それが主食です。──どうやって食べるのですか。炒いったりしていました。ひどいものです。米は1カ月に1回か2回だけ。何を食べたらいいというのか。手持ちの着物を食べ物と交換するしかない。食べ物を得るために買い出しに行かなければなりません。うちは母が持っていた着物を交換しました。途中では臨りんけん検に遭あう。警察に捕まるんです。皆、食糧を取り上げられて泣いていました。私は運良く1回も捕まらなかったのですが。そんな状況が1年から2年くらい続きました。戦災孤児、浮浪児もたくさんいました。私は青年でしたが、そのひどさを目の当たりにしました。また、長姉の旦だん那なさんは国民学校の校長をしていましたが、たばこがやめられず、手に入らないのでハスの葉を刻んで吸っていました。土浦の阿あみ見大空襲で、友が皆死んだことを聞かされたのも戦争が終わってからです。特攻隊では2500人くらい亡くなっています。海軍は土浦から飛び立ち、陸軍は知ち覧らんからでした。尊い命が皆、16歳から、お国のためだと思って散っていったんです。われわれの時代というのは、そういう時代でした。──小学校時代からバスケットボールをしていたそうですが。佃島小学校時代から選手として大会に出ていました。戦後は越中島の都立三商に進しん駐ちゅう軍ぐんがバスケットコートを作ったので、私たちもアメリカ兵と一緒に練習しましたよ。そこで日本鉱業の実業団チームも練習していて、その縁で選手として入社しました。戦争中はバスケットボールとは言いません。籠ろう球きゅうと呼んでいました。──こうした戦争の話は、ご家族に話してこられましたか。肉親には話してきませんでしたね。悲惨な話はあまり言いたくないんです。でも、今は若い人たちに伝えていきたい。決して戦争を起こしてはいけない。その信念を持ってほしいと思うのです。沖縄戦や広島、長崎の原爆は大変なことです。東京の空襲も、なぜもっと伝えられていないのかと思います。あの悲惨な空襲を乗り越えて、今日まで来たんです。戦争は決して起こしてはいけない。人を互いに思いあう温かな心を持ち、1歩下がって相手の気持ちを見極めて生きてほしい。そうすればわだかまりも起きません。戦争の話を通して、こういう時代があったということを若い人たちに知っていてもらいたいです。写真左から、大須賀さん、谷垣さん、櫻井さん、千野さん151未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記軍隊