ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

空襲に次ぐ空襲から、どうやって生き延びてきたかに思った母親がよく食料を届けに行っていたのを覚えています。不発の焼しょう夷い弾だんを見学する余裕があった頃──空襲の体験を、お聞かせください。川島私の妹が生まれたのが昭和17( 1942)年なのですが、その少し前にサイパンが陥落してアメリカ軍機が日本に飛んで来やすくなった。日本本土が初めて空襲を受けたのが、4月でしたね。荒川や王子の方と、こっち側でも飯田橋から早稲田へ向かってやられたのが1回目ですよ。九段下の向こうの、中坂のあたりにも焼夷弾が落ちました。長谷部その時私は中学生で、校門のところで爆撃機が飛んでいくのを見ましたよ。あのときはたしか、B17だったね。戦争によって仕事を換えさせられた家族たち──お二人の生まれた年と、出生地。それから戦争当時のご家族について教えてください。長谷部私は昭和6(1931)年に、神田神保町1丁目で生まれました。川島私も6年ですが、早生まれだから学年は1つ上ですね。お隣の神保町2丁目の生まれです。家族は両親と姉が1人、弟と妹の6人家族です。長谷部私もきょうだいは5人。上に女が2人、下に妹が1人と弟が1人います。──ご両親のお仕事は。川島父親は製本業をやっていました。兵隊に取られる年齢ではなかったけれど、戦争中は出版統制もあって他に仕事を探さなければいかなくなり、立川飛行機(陸軍の軍用機を製造する航空機メーカー)の関連企業で終戦まで働いていました。長谷部私の家は食堂を営んでいて、けっこう繁はん盛じょうしていたのですよ。ところが戦争が始まると米が配給になったり、外食券というものがないと外食ができなくなるなど、だんだんに飲食業をやっていくのが難しくなってきた。それで父親は地区の防ぼうくう空群ぐん長ちょうをやって、町内に防ぼうくうごう空壕を掘る仕事などをしていました。──疎開は、なさらなかったのですか。川島空襲が激しくなってから、おふくろが下の弟と妹を連れて実家のある小お山やま(現・栃木県小山市)へ疎開しました。上の姉と私、それと父親が神田の家に残っていました。長谷部私の1学年下から学童疎そ開かいへ行くことになり、弟と妹は埼玉県のお寺へ入っていましたよ。食べる物に不自由しているとかで、不ふ憫びん同じ昭和6(1931)年生まれながら、3月生まれの川島巖さん(84歳)は学がく徒と動どういん員で工場勤務を経験。9月生まれの長谷部俊一さん(84歳)は、学徒動員に行く予定日に終戦だったそうです。わずかな違いが運命を大きく分ける戦時中の体験、また戦中戦後の食糧難の思い出などを語っていただきました。長谷部俊一はせべしゅんいち神田神保町川島巖かわしまいわを神田神保町インタビュアー長嶋泰(大学1年生)富山愛茉美(大学3年生)154未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集