ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ページ
160/214

このページは 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 の電子ブックに掲載されている160ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

プセル)が空中でばらばらに外れて地上に落ちてくる。その親のままストーンと落ちてきたものだから、油脂が飛び散らなかったんです。川島それは幸いでした。長谷部火はついたものの、私と近所の仲間の3人ほどでなんとか消すことができました。川島私の家は、4月13日の空襲で家の前にあるお風呂屋さんが焼けて煙突が倒れたんです。私はそのとき母親の実家の栃木にいたのですが、神保町がやられたとラジオで聞いて、朝5時の電車で東京へ帰ろうとしました。ふだんは1時間足らずで着くはずが、お昼になっても大宮まで着かない。蕨わらびまでやっと来たところで、隣に貨物列車が停まったから、これなら動くかと思って乗り込んだのだけど、これも動かない。しょうがねえと思って、そこから線路の上を歩いて行きました。なんとか神保町に着いたときには、夕方4時になっていました。──ご家族は無事でしたか。川島家に帰ると、父親が「全身が痛い」とうんうんうなって布団で寝ていました。──ヤケドですか?川島いや、煙突が倒れたときの爆風で飛ばされて、全身を打ったらしい。それから1週間ほど寝込んでいましたよ。磯いそ子ごのアサリ、お堀の鯉──お二人とも、学徒動員には行かれたのですか。長谷部毎晩、夜の11時半、12時になるとラジオから「B29、1機、本土に向かって飛行せり」なんてニュースが流れる。御お前まえざき崎から入ってきて、右へカーブして三鷹の方から房ぼう州しゅうを抜けて帰るというのがお決まりのコースでした。川島要するに、富士山を目指して来るんだ。朝昼晩もかまわないし、今日来たら、明日は来ないかと思えば来る。長谷部それが毎日なのだから、われわれも神経衰すい弱じゃくになりましたね。川島寝るときも靴を履いたまま、足だけ布団から出して横になったものです。長谷部足にはゲートルを巻いていました。──空襲警報を聞いたら、防空壕に入るのですか。長谷部防空壕を一生懸命に作っていらした川島さんのお父さんには申し訳ないけれど、防空壕に入ったほうがおっかないんです。むしろ表へ出て、飛行機の位置をしっかり見たほうが利口なの。爆撃機が自分の方へまっすぐ飛んで来て、通り過ぎた先で爆弾を落とされるのがいちばん危ない。だから飛行機の行く先を見極めて、右か左か、どっちかへびゅっと逃げればいい。──そうなんですか。川島最初のうちは、おっかなくて縮こまっていたけれど、空襲が繰り返されるにつれて、慣れるというか図々しくなるというか(笑)。長谷部防空壕の中で亡くなる方もいました。今考えれば、父親が掘っていたような小さな防空壕をいくら用意しても、役には立たなかったでしょう。川島私は3月10日の大空襲の3日後、焼け野原の下町まで歩いて行ったことがあります。家の焼け跡に焼けぼっくいのようなものが立っていると思ったら、人の足でしたよ。長谷部焼け野原の景色というのは、それはむごいものでしたね。川島結局、初期の空襲でぽつりぽつり焼夷弾を落としても、すぐに火を消されてしまう。だから3月の大空襲では、下町の周囲からどんどん爆弾を落として、最後に中心部を攻撃した。だから多くの人が逃げ遅れて死んだんです。長谷部あの日、神保町界かいわい隈での被害はそれほど大きくなかったのですが。川島九段坂から見上げると、富士見町の辺りに、例の線香花火みたいな火の玉がいっぱい見えました。驚いて外へ出た時、手に持っていた新聞の文字が読めるくらい空が明るかったのを覚えています。そうして翌日になると、駿河台下の方から市ヶ谷に向けて、下町から焼け出された人が隊列をなしてくるのが見えました。皆さんが、目を拭き拭き歩いているので、どうしたのかと思ったら、火にあおられて涙が止まらなくなっていたんだね。──お二人の家も、空襲の被害に遭あったのですか。長谷部私の家は、昭和20(1945)年2月25日の空襲のときに焼夷弾が3階建ての屋根を突き破って、家の中に落ちてきました。ただ焼夷弾というのは普通、何十発も入った「親」(カ156未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集