ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

──玉ぎょく音おん放ほう送そうは、工場で聞いたのですか。川島広場へ集められて、みんなで並んで聞きました。最初は意味が分からなかったけれど、「堪たえ難きを堪え、忍び難きを忍び」の所で、ああ負けたんだと。おおっぴらには言えないけれど、内心喜びましたよ。周囲の友人とも、「終わったな」「帰れるな」と目配せし合ったものです。長谷部私は自分の家で、家族と聞きました。聞き終わってふらっと表へ出たら、P51って戦闘機が焼け跡の向こうから私を目がけて飛んできた。──終戦の日にも、ですか。長谷部昼の12時過ぎたら、ぴたっと終わりましたけどね。その日の朝までは、機き銃じゅう掃そう射しゃもあったんですよ。川島私はそれまでも先生の代行のようなことをしていたので、玉音(放送)を聞いてからも工場に残って移動証明書というのを作らなけれ怒鳴られる。──どんないたずらをしたのですか。川島工場の裏の丘から野イチゴを集めてきたり、近所の庭先からザクロの実をもいだり。いちばんおっかなかったのは、友達5人と磯子の海岸でアサリを夢中で採っていたら、地元の漁師さんに囲まれちゃってね(笑)。長谷部そりゃあ大変だ(笑)。川島向こうも5人だったんだけど、1対1になれば子供のほうがすばしっこい。アサリもバケツも投げ出して、ばっと散り散りになって逃げ切りましたよ。掃除で使うバケツだったから、それも先生にこっぴどく叱しかられた。長谷部やはり食べ物がらみなのですね。軍需工場に行けば、食べ物は豊富にあると聞かされていましたが。川島世間の暮らしよりは、多少ましだったと思います。肉も野菜もありましたから。ただ私たちはジャガイモなどでかさ増しされたご飯だったけど、工場を守る兵隊さんは真っ白なご飯でね。子供心に、「あっちはうまそうだ」と思っていました。──工場で働いていれば、お腹も空くでしょうね。川島3時のおやつも、お菓子じゃなくて雑ぞう炊すいでした。それでも腹持ちが悪いと訴えると、炊事の人がかわいそうに思って、米の配給券を用意できたらおにぎりを出してくれると。それでみんなから券を集めて、おにぎりとたくわん1~2切れを食べるのが楽しみでした。長谷部私は行かなかった。都立工芸高校の2年になった年、「8月から動員だ」と言われていたのだけど、ちょうど終戦になって行かなくて済んだんです。姉の1人は、有楽町にあった日劇(日本劇場)で風船爆弾を作っていました。今、有楽町マリオンになっている場所ですよ。──そんなところで風船爆弾が作られていたのですか。長谷部水素が漏れないかテストするため、気球を天井からぶらさげられるような高さのある建物が必要だったそうです。川島私は簿ぼき記の勉強で商業高校へ通っていたのですが、2年の時から学徒動員で軍ぐん需じゅ工こう場じょうで働いていました。東陽町にあった工場は3月10日の空襲で焼け、その後は横浜の工場へ移る予定だったのだけど、集合予定の日がちょうど横浜の大空襲ですよ。結局は磯子にある海軍の兵器工場へ呼ばれて、そこで終戦まで機関砲の弾を作っていました。──工場では、どんな思い出がありますか。川島仕事はきつくて大変だったし、作っている薬やっ莢きょうをうっかりポケットに入れたまま工場の外で憲けんぺい兵に見つかろうものなら、大変な目に遭いました。ただ、13~14歳の子供が集団で生活しているのだから、悪さはしょっちゅう(笑)。あんまりいたずらばかりするもんだから、寮で「お前らは職員室の隣で寝泊まりしろ」と。それでも夜中に騒いでいると、引き戸のベニヤに開いた節穴から先生が覗のぞいて、「こらー」って157未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記座談会