ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

それを世の中に役立てるように心がけてほしい。言いたいことはそれくらいですね。川島さっきB29から逃げる方法を教えたけれど、何だって自分の目で見て判断して、自分で考えて行動するのが大事です。ニュースや何やらの情報が飛び込んで来るのを、ただ鵜うの呑みにするんじゃなくてね。それは忘れないでもらいたいです。川島長ーい缶に薄切りベーコンが入っているのを、1枚ずつつまんで抜くわけ。塩味が適度に効いていて、あれはうまかった。日本のスーパーで今売っているベーコンとは、全然別物だね。あれはもういっぺん、食べてみたいなあ(笑)。──今まで鬼き畜ちく米べいえい英と呼んでいたアメリカ軍に対して、恐怖感はなかったのですか。長谷部それはありましたよ。年頃の娘は、「田舎の方へ隠れていろ」と言われて。川島そういえば、戦後しばらく街には男ばかりが目立ったね。配給を取りに行くのも、姉じゃなくて私が行かされた。バケツ1杯、イワシをもらったこともあったなあ。長谷部戦後の食べ物で思い出すのは、お堀の鯉ですね(笑)。憲けんぺいたい兵隊司令部の前にあるお堀で、でっかいのが釣れたんですよ。サツマイモを釣り針の先へつけて、ぽーんと遠くへ放ると、面白いようによく釣れた。川島戦争中は、憲兵にみつかると大変だから釣つりざお竿が立てられず、糸だけ垂らして釣ったもんだけど。長谷部戦後はその心配もなくなりましたからね。自由に行動できるというのは、嬉うれしいもんだったんですよ。──そうした体験をふまえて、私たち若い世代に伝えたいことは何でしょうか。長谷部年寄りがあまりしゃしゃり出ても、仕方ないと思います。ただ一生懸命に勉強して、ばいけなかった。配給をもらうにも居場所の証明書が必要だったんです。それで同級生と上級生の3人で、3日間かかって生徒全員の住所を書いて渡して。それをやり終えてから帰ったから、余計に「戦争が終わった」という意識がありました。──ご両親も喜んだでしょう。川島寮を出るときにくじびきで、セメントでできた炊事用のコンロが当たったんです。それを担いで神田の家まで帰りました。その年の11月にはおふくろたちも栃木から帰ってきて、やっと家族が揃そろいました。長谷部わが家も、埼玉へ集団疎開していた弟と妹が帰ってきました。──食糧事情は、戦後もなかなか改善しなかったのでしょうか。長谷部むしろ戦後のほうが、ひどかったんじゃないですか。お米が本当に手に入らなくなって、うどん粉を練ってすいとんにしたり、サツマイモをふかしたようなのが主食という家庭が多かった。川島配給される農林1号ってサツマイモは、まずくて食えたもんじゃなかった。長谷部アメリカ軍からの放出物資では、おいしいものがたくさんありましたね。コンビーフの缶詰などは、うれしかったですよ。育ち盛りで、肉に飢えていましたから。川島忘れられないのは、ベーコンの缶詰。──ベーコンがそのまま入っているのですか。写真左から、富山さん、川島さん、長谷部さん、長嶋さん158未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集