ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

第2部体験記座談会目で生まれ育ち、ずっと鍛冶町に暮らしていま女学校2年生の4月に、長野県の別所温泉へ集髙野昭和6(1931)年、神田鍛冶町2丁工こう場じょでう風船爆弾の部品などを作っていました。か。がひどくなって勉強どころじゃなくなり、軍ぐん需じゅ身のことについてお話しいただけますでしょうさんの隣にある大きな立派な学校でした。戦争いできたらと思っています。では、皆さんご自髙野淑徳高等女学校に進学しました。傳でん通づう院いんださい。最後に終戦後のことについておうかがれたのですか。ちばん印象に残っていることについて教えてく──小学校を卒業されたあとは、どちらへ進まついてお聞かせください。2つ目は戦争中、いれど、旧今川小学校の出身です。思っています。1つ目は皆さんご自身のことにおりました。もう廃校になってしまいましたけ──本日は、3つ質問させていただきたいとラスを扱う商売をしており、けっこう繁はん盛じょうしてといって板ガラスやフラスコなどの理化学用ガそれぞれに疎開生活を経験す。うちは今川橋の交差点の角で「髙野理科」こばやしとうたろう小林東太郎神田東松下町えのもとよしひろ榎本芳弘神田佐久間町みむらえいいち三村榮一神田鍛冶町そのときの状況や様子、思いを語っていただきました。疎開先での空腹に辛つらい思い乗り越えた榎本芳弘さん(をし83歳た)髙、野東登京喜でさ激んし(い空84歳襲を経)。それぞれ当時を振り返りながら、小学校1年生で新潟へ縁えん故こ疎そ開かいをした小林東太郎さん(験し78歳た)三、村疎榮開一先さでんの(いじ82歳めを)、辛かった疎開生活と恐ろしかった空襲をしました。終戦は中学1年生のとき、疎開先町に引っ越しました。私は集団疎開で辛い思い宅をある会社に貸して、私たちは豊島区の椎名なくなってしまったんですね。だから、店と自(1939)年の統とう制せい経けい済ざいができなくなりました。というのも、昭和で普通の商いができ14やっていましたが、小学校3年生のときに商売いですが旧佐久間小学校です。うちは炭問屋をになっています。小学校は、やはり今はもうなは神田佐久間町1丁目です。今はそこが事務所榎本私は昭和7(1932)年、生まれたの団疎開をしました。たかのとき髙野登喜神田鍛冶町インタビュアー安田律子(大学院2年生)長嶋泰(大学1年生)西山侑里(高校2年生)159未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集