ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

の店員がたくさんいました。小林下がお店で上に地方から来た若い人たちが住み込み、店員として育てられていましたね。ワサビの粉やツツジも食べた──では、戦争中のお話を具体的にうかがっていきたいと思います。まず、疎開されたときのことを教えていただけますか。髙野私は女学校2年生の4月です。別所温泉に集団疎開しました。宿泊先は柏屋別荘という大きな立派な旅館でした。けれども、食べ物のないひもじさと、親から離れた寂しさったらありませんでした。東京へ帰りたかった。親のところへ帰りたかった。別所温泉にお土産屋さんはありましたが、何にも売ってないの。ワサビの粉しか売ってない。だからワサビの粉を買ってなめたり、ツツジの花を食べたり、青梅をもいで食べたりしました。よくお腹を壊さなかったと思います。なにしろ、食べるものがないというのがどんなに辛いか。でも、あのときは一生懸命でした。戦争に勝たなければいけないという思いしかなかったから。愛国精神のかたまりです。勝つまでは頑張ろうと、みんな文句ひとつ言わずに我慢していました。でも、私は5月に栄養失調になってしまったんです。上田の病院で診断書を書いてもらい、父親が面会にきて連れて帰ってもらいました。舎にいたので分かりませんが、私の下にも子供が2人いたので、親は大変だったろうと思います。──お聞きしていると、当時は小学校が多かったんですね。三村人口が多かったですから。旧神田区は商売をやっている家が多く、少年店員や住み込みの栃木県の那須で迎えました。そのあと東京へ戻ってきて九段高等学校へ行きました。三村私も昭和7年生まれです。うちは神田鍛冶町2丁目で、髙野さんの近所です。小学校から暁ぎょう星せいです。暁星は私立だから、私は疎開には行っていません。ミッションスクールですからお寺はだめなんですね。東京でもだいぶ物がなくなってきたけれど、なんとかやっていました。昭和20(1945)年2月25日の空襲で自宅が焼け、谷や中なかの叔父の家で生活していて3月10日の空襲も経験しました。暁星は自動的に中学へ行けたからそのまま進学しましたが、3月におやじが亡くなり、それからは自分がおやじがわりとして、いろいろと頑張ってきました。小林私は皆さんより少し下で、昭和12(1937)年生まれです。出身は神田東松下町で、今もそこに住んでいます。武道館のあたりは近この衛えし師団だんの兵へいえい営地ちでしたが、子供の頃に戦意昂こうよう揚のための軍旗祭があって、それに行ったのを覚えています。それから当時は、都電に乗っていたら、靖国神社や二重橋の前になると車掌の号令でお辞じぎ儀をさせられました。昭和19(1944)年に小学校に入学しましたから、終戦のときは小学校2年生でした。私はおやじの郷里である新潟県の雪深いところに1年間1人で疎開しました。伯父の家、つまり父の実家です。完全な農家の中で1年間の農業生活を経験しました。姉は集団疎開で埼玉の樋ひ遣やり川かわむら村に行っていました。東京で空襲があったときは田160未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集