ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

第2部体験記座談会いたのですが、そこで集団疎開に行きました。榎本私は引っ越して豊島区の小学校に通って疎開先で思わずやった芋泥棒マイモとカボチャは食べたくないですね(笑)。たから飢えずにすみました。だけど、今はサツ辛くて美味しくはなかったけれど、それがあって。それも砂糖がないから塩入りのジャムです。パンにサツマイモを練ったジャムを塗ったりしうになり、木枠を作ってパンも焼いていました。かったですね。終戦後は小麦粉が配給されるよをみんな耕して畑にしていた。だから空腹はなとれたんです。申し訳ないけれど、焼けた敷地ですよね。カボチャとサツマ東京の食糧事情ですが、昭和イモ20年がはも暑のかすっごたくんど、ほかのものはけっこう量を食べていました。ですから。僕は東京でしたが、お米はないけれりました。だって、ろくなものを食べていない4つ下の妹が栄養失調になりましたから引き取三村うちもそうですよ。埼玉に疎開していたど、いるんじゃないでしょうか。髙野私は帰ってしまったから分からないけしょうか。──栄養失調になった人はほかにもいたのでいです。泉のお風呂に入って詔しょう勅ちょをくお聞きになったらしさんは大変だったと思う。終戦のときには、温私は家に帰れたからよかったけれど、残った皆は、泥棒をしたことです。ある家が芋を軒に並当時の思い出でいちばん心に残っているの寒くて大変だったみたいですね。のですが、本堂などは間仕切りがないし、冬はまったという例もあ榎本お寺ですと、るよ80?う1で0す。0夏人はがよ一か緒っにた泊旅館が多かったようですね。──千代田区だと、神田区はお寺で、麹町区は人が宿泊しまない宿屋は私た。原ノ町でしたたち10何。軒11人かでに、分多かいれとてこ、ろいはちば40?ん少50かったですが、私たちの学校はすべて宿屋でしれました。集団疎開はお寺に宿泊した人が多大きな学校でしたけれどとにかく引き受けてく町では大変だったと思います。原ノ町の学校は250人以上の子供たちがやってきますから、ました。今は南相馬市原町区となっています。8月私でがす疎。開福し島た県ののは原昭ノ和町と19年い、う小と学こ校ろ6に年行生きの学校は圧倒的に集団疎開が多かったですね。ちは集団疎開か縁故疎開へ行きました。私の小いいということでしたが、8割くらいの子供た開しなさい、と。それもできない人は残ってもけない人たちは縁故や知り合いを頼って縁故疎避難しなさいという命令が出て、どうしても行市の子供たちは、近郊のお寺や宿泊施設に一時した。それで東京、名古屋、大阪といった大都7月昭和に東19年京に都政か府らか帝ら都学学童童疎疎開開促実進施要要綱綱がが出出てま、写真を手に当時のことを語る榎本さん。右の写真は、当時、疎開先の宿屋に宿泊した11人の児童たち(3列目中央のメガネをかけた児童が榎本さん)161未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集