ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

やらされたことがあります。でも普段やっていないから分からない。しまいには笑われて終わりました。榎本私たちの中学校では三八式歩兵銃という本物の銃でやりました。3年生以上はみんな勤きんろうどういん労動員で学校におらず、1年生と2年生しかいなくて、銃を担いで行進させられました。私は身体が大きいほうだったから担かつげたけれど、身長が150センチメートルあるかないかの奴がいるんですよ。そうすると三八式歩兵銃のほうが大きいから、ひっくり返っちゃって行進なんてできやしない。そうすると軍事教官からサーベル(軍刀)でぶん殴られるんです。軍事教官は怪け我がか何かをして足を引きずっている人でしたから、今考えてみると、本当は戦場に行きたかったのかもしれません。でも、それがヒステリックに怒るんです。三八式歩兵銃を落としてバタンと倒そうものなら、「天皇陛へい下かの御武器に泥をつけるとは何ごとか!」と死ぬほどぶん殴られるんです。三村うちの学校にも三八式歩兵銃はあったけれど、とても担いでなんて歩けないですよ。木銃を担いで走ったって痛いくらいですから。近いから、皇居1周はよく走らされましたね。髙野女性だって軍事教練がありましたよ。なぎなたも駆かけ足もやった。あんなもので「エイヤー」とやっても、勝つわけがないですけれどね。三村あと、授業で大変だったのは、教育勅ちょく語ご(現・久喜市)のお寺に疎開していました。うちの学校は軍ぐん事じ教きょう練れんもありませんでしたが、それでも昭和20年の4月から3カ月間はやりましたね。軍事教練といっても、木銃という棒を担いで走るだけです。私は副班長だったんですが、班長が欠席したときに号令をかける係りをり、それでいじめはなくなって差別を乗り越えました。おふくろにばれて「死にに行くことはない」と泣かれたので、本試験は受けませんでしたが。中学校では、私たちの3級くらい上の生徒で予よか科練れんに行っている者もいました。栃木県内でも陸軍士官学校や海軍兵学校の入学率が高い、いわゆる進学校だったんです。中学校は、陸軍に半分占領されていました。生徒は正門から入れず、裏門から入っていました。正門から入れるのは軍人だけです。海軍兵学校に入った人たちが生徒の募集のために宣伝に来るんですが、またみんな白い制服で短剣を差して格好いいんですよ。どのくらい偉い人なのか、海軍兵学校の位は陸軍の人には分からないから、門番が号令をかけて衛兵まで立ってあいさつをします。校長でも正門から入れないのに、堂々と正門から入ってくる姿がとにかく格好よくて。そういうのをわざわざ演出して私たちに見せるわけです。そして「飯はたらふく食っているぞ」という話をする。そうするとみんな子供だから憧あこがれてしまう。そういう時代でした。本物の銃で行った軍事教練──ほかに疎開や学校での思い出はありますか。三村私は縁故もないし、ミッション系の学校でしたから疎開はしていません。私の2つ下の弟は今川小学校だったので、埼玉県の菖しょう蒲ぶ町まち164未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集