ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ページ
170/214

このページは 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 の電子ブックに掲載されている170ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

三村私は自宅が焼けてから谷中の叔父の家で暮らしていました。家の前が寛永寺の墓地で三角地帯になっているのですが、3月10日の空襲では叔父の家を含めてそこにある3軒だけが残りました。それには理由があって、庭に池があったのと、叔父がドラム缶10缶くらいに水を用意していたんです。JR(当時は国電)の線路の方から火がやってくるから、お屋敷みたいなところの塀を火の方向に倒して食い止めたんです。そして、水があるからみんなでバケツリレーをして火を消しました。うちはみんな江戸っ子なので、この家が焼けたら行くところがなくなってしまいますから。当時はヘルメットなんてないでしょう。綿の入った防ぼうくう空頭ず巾きんをかぶり、その上から水をかぶるんです。でも、10分もすれば乾いてしまう。そのくらい火に近づかないと消せませんでした。上野高校あたりの町会は焼けなかったから、明るくなってから応援に来てくれました。なんとか火が消えて、やれやれと思って休んでひょいと見たら、ドラム缶の中に鯉が入っている。誰かがバケツリレーですくったんでしょうね(笑)。それが小学校6年生のとき、卒業間際です。榎本3月10日は疎開した6年生も卒業するというのでかなりの子が帰ってきていました。それで亡くなった子がたくさんいます。私は豊島区の自宅にいましたが、神田の方が燃えていると言われ、屋根に上って見ていました。神田は自分の生まれた町ですし、家がありましたから。たが、地下と1階は火が入っていなかったので母を連れて帰りました。それから焼け残った1階と地下で生活をしました。バケツリレーで火を消す──3月10日の空襲はどうだったのでしょうか。れました。うちのまわりもすべて焼けましたし、焼夷弾2発がうちに当たり燃え出しました。2人の妹は隣の家にお願いして避難させ、しばらく火を消そうとしていたんですが、火の勢いがとても強くて母親と一緒に寛かんえい永寺じに逃げました。近くに叔父の家があったので、うちが焼けたらそこに行くことになっていたんです。そうしたら、妹がまだ来ていない。母親と叔父が探しに戻りましたが、中央通りが焼けて入れず戻ってきた。そのときに、妹も谷中にやって来てホッとしました。おやじは町の役員をやっており、農業会(今の農協)に食糧の調達へ行って留守でした。弟の疎開先に食糧がないため、その調達をしに埼玉に行っていたんです。戻ってきて焼けた跡を見てショックを受けていました。髙野あの空襲は本当に怖かったです。私は父親が4階建てのビルを持っていたので地下に逃げたのですが、他の人に「地下だと死ぬ」と言われたので、中央通りを三越の方に逃げました。でも、三越はすでに満員で入れず、今の三井住友銀行に逃げ込みました。夜10時過ぎには雪もほとんどやんでいたし、父親が警けいぼうだん防団で朝から出ていて心配だったのでうちへ戻りました。あの頃はまだ今川橋という橋があって、それを渡ったらうちのところにポッと灯りがついていて、父がいたんです。父の顔は炎で腫はれ上がっていましたが、身体のほうはなんともありませんでした。銀行にはまだ母親が避難していまし166未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集