ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

う思いでした。辛かったです。親はもっと辛かっただろうと思うけれど。もう本当に戦争はこりごりです。宮きゅうじょう城の砂利道で土下座をした──終戦の日、玉ぎょく音おん放ほうそう送を聞かれたときのことをお聞かせいただけますか。榎本私は聞いていませんが、前日に明日の正午は大変な放送があるというのが知らされ、8月15日の朝にも国民は必ず聞くようにと放送されたそうです。髙野そう、重大放送があるって。榎本8月15日は天気がよくて暑い日でした。私は那須村から中学校まで汽車で通っていたのですが、その日は登校日だったので学校に向かいました。汽車に乗ってきた先輩たちが「今日は大変な放送がある。天皇陛へい下かがどうもお話しをされるらしい」と話しているのを聞きつけた友達がいて。天皇陛下はきっと「お前たちの命を全部私にください」とか「一億一心火の玉だ。玉砕する」ということをおっしゃるに違いないと。「そうしたらどうする?」「そのときはそのときだ」などと言いながら学校に行ったんです。学校の講堂に集まって放送を聞きました。うちの学校は軍隊が半分くらい接せっ収しゅうしていたので、軍隊の人たちと一緒に聞いていました。内容はよく分からないけれど、どうも威い勢せいがよくない。「私に命をください」なんてことは言っていな弾倉から焼夷弾を落とすのが見えました。あとで聞いたら、焼夷弾は36本くらいがひとかたまりになっていて、それを落とすと途中でパーンと広がるんですね。さっき三村さんが「布がくっついている」とおっしゃいましたけれど、それに火がついたようになって線香花火みたいに落ちていきました。それを私はこんちきしょうと言いながら望遠鏡で見ていました。三村3月10日の空襲のあと、3月17日におやじが亡くなりました。うちのまわりは家を貸している家族が多かったから、おやじは警報が出るたびにぐるりと見回りをするんです。でも終わって寝ようとすると第2波がきて、また見回りに出る。食べるものだって、子供には食べさせたけど、本人はそんなに食べていなかったと思います。過労や空襲での心労などが重なっていたのでしょう。小学校の卒業式はありましたが、ちょうどおやじが亡くなったときだったから行けませんでした。髙野私も本当に悲しい思いをしました。私には兄がいたんですが、フィリピンのレイテ島で戦死しました。兄は幹部候補生に受かり、少尉に任官され北満に行っていました。いったん帰ってきましたが、また出兵して。昭和19年、フィリピンのレイテ島はすごい戦場で、そこで亡くなりました。23歳のときで中隊長でした。戦死して大尉になったといってもうれしくないです。もう何と言ったらいいか、戦死だなんて人ごとのように思っていましたが、まさかといB29が飛んでいくのが見えました。B29はぐるりと回って埼玉県や板橋の方からもう1回東京に入っていくんです。そうすると豊島区の上を通るんですよ。B29が胴体のお腹を開け、爆弾が入っている倉庫を弾だんそう倉というのですが、その167未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記座談会