ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

榎本あの頃は歳が2、3年違うとずいぶん違いますよね。戦中と戦後の天皇像──戦中から戦後にかけて、天皇像も変わりましたね。髙野戦争中は天皇陛下は神様ですから。戦争前ですが、陛下が靖国神社にいらっしゃるとき、私は小学生でしたけれど九段坂に並んでお迎えしました。榎本私も小学校2年生くらいのときに、天皇陛下が自動車でお通りになるというので、昭和通りに並んでお迎えしました。「敬礼!」と言われ、おじぎをして直ったらもう通り過ぎている(笑)。でも、疎開で那須村にいたとき、那須の御用邸に陛下がいらっしゃったことがありました。昭和になってから、陛下は炭たんこう鉱や農村などいろいろなところを巡行されていました。それで、わが村に天皇がおでましになると大おおさわ騒ぎになりました。当時、僕ら中学生はその村ではエリートでしたので、陛下をお迎えする指揮を執とれと言われて。何かご挨あいさつ拶を習ってやったとは思うんだけれど、顔を上げてお顔を拝見した記憶があります。小林結局、戦後処理という話になるんですよね。日本はGHQのもとに入ったでしょう。天皇が戦争責任を負わないでいいようにしたわけですよね。それが、アメリカがいちばん苦労し三村私は夏休みでしたから、伯父の家で聞きました。7?8人いたかな。ラジオを引っ張り出して聞いたけれど、何を言われているかよく分かりませんでした。ただ、天皇陛下の言葉に勢いがないということは分かりました。そしたら、伯父が「負けた」と。解説までは聞かなかったですね。髙野私は負けると思っていなかったから、負けたと聞いたときは悔しかった。兄もフィリピンのレイテ島で戦死しているし、申し訳ないと。あのときは気持ちが高ぶって、下駄履きで宮城に行きました。結局負けちゃったんだもの、謝らなきゃいけないと思ったんです。今の若い人にはそういう気持ちは分からないと思う。砂利道で土下座して謝りました。まわりもみんな土下座していました。小林そのとき、戦争が終わってホッとしたという気持ちはなかったですか。髙野なかったですね。われわれの力が足りずにこういう結果になってしまって、本当に申し訳ないという気持ちでした。──小林さんはどのような気持ちでしたか。小林私は子供でしたから、悔しいとか申し訳ないという気持ちはなかったですね。ただ、なんとなくまわり全体がホッとしている雰ふん囲いき気を感じました。私は戦後の民主主義教育を受けたほうで、小学校、中学校、高等学校と戦争に対する反省に根付いた教育でしたから、ちょっと世代が違うんですね。いぞと思っていたら、後からアナウンサーがポツダム宣言の解説をしたんですよ。それを聞いたら、負けたんだということが分かりました。大尉や中尉、将校ら偉い人たちもおろおろ泣いていますし、やっぱり負けたのだと。168未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集