ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

毎日食べること、生き延びることしか考えていなかったましたね。女部田そうそう、国防婦人会でね。櫻井そうしてご近所の方や小学校の友達が日の丸を振って見送ってくれる中を、靖国神社まで行進していった父の姿が記憶に残っています。しかし父は、その年の10月にソ連と満州の国境辺りで八はち路ろ軍と戦って亡くなりました。僕は長男だったから、青山の日本青年館まで遺い骨こつを取りに行ったんですよ。2月の寒い日でした。市ヶ谷の駅から骨こつつぼ壺を持って帰ってくると、近所の方たちがまた旗を振って迎えてくれました。女部田私の上の兄も、テニアン島(サイパン島付近)で戦死。下の兄は広島で原爆に遭あって、それがもとで戦後に亡くなりました。むごいことが起こりますね、戦争というのは。家族を離ればなれにする戦争──まず戦争中、お二人がどこに住んでいたかを教えてください。女部田私は本郷(現・文京区本郷)にいました。尋常小学校を出てから、医療器具の工場に住み込みで働いていたんです。陸海軍で戦傷した兵隊さんを治療するために使う、ハサミやメスの加工をする工場でした。櫻井私は昭和19(1944)年に、東郷国民学校(現・九段小学校)に入学しました。戦争末期、学校の友達はみんな縁故疎開や集団疎そ開かいで東京を離れていましたが、僕の家は両親とも東京出身で疎開する田舎がなかったんです。そのため1年生の終わり頃には、学年に僕ひとりしかいませんでした。──家族構成を、教えてもらえますか。女部田母親は私が7歳の時に死んで、父親は富士見町1丁目で板金工をやっていたのだけど、戦争が始まってからは前橋の親しんせき戚の家へ疎開していました。兄弟姉妹は僕のほかに男3人、女が4人。兄2人は戦争へ行ってました。櫻井僕の家は5代続く食料品店で、戦争中は配給の仕事を請け負っていました。家族は両親と妹、祖父母、父の弟である叔父の7人。叔父は海軍に志願しましたが、健康を害して除隊した後に病気で亡くなりました。父は僕が小学校1年のときに徴ちょう兵へいされて北支(北支那方面軍)へ入隊しました。そのとき、近所の方が虎の絵の掛軸をくださいました。──虎の絵、ですか。櫻井虎は「千里往いって千里還かえる」といって、無事に帰るようにというお守りだったんです。町内会の婦人部の皆さんも千人針を作ってくれ尋じん常じょう小学校を出て、医療用の器具を作る工場へ住み込みで働いていた女部田金造さん(85歳)。小学校1年生のときにお父さんが出征し、その後に戦死が確認された櫻井守さん(77歳)。戦争が激しくなるなかで家族と別れ、さまざまな苦労をなさったお二人に当時の記憶を語っていただきました。櫻井守さくらいまもる九段北女部田金造おなぶたきんぞう富士見インタビュアー三輪田颯真(中学1年生)吉岡さくら(高校2年生)170未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集