ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

女部田あの頃は、みんなリヤカーでしたね。──櫻井さんの、ご自宅は。櫻井幸い焼けるのは免まぬがれましたが、いよいよ東京にいては危ないということになったのです。父も戦死してしまい、櫻井の家に男の子は僕ひとりだけでしたから。それで神保町にいた母方の叔父が浦和に家を買ってくれて、そこへ2人で疎開することにしました。今は浦和といったら都会だけれど、当時は北浦和から蕨わらびの辺りまで一面、田んぼと麦畑ばかりでした。──今はビルがいっぱいです。櫻井信じられないだろうけれど、5月の空襲のときは、東京の上空からB29が焼夷弾を落とすのが浦和の家から見えたのですよ。女部田5月の空襲も、ひどかった。櫻井風が強くて、火の回りが早かったそうですね。その日の空襲で自宅は焼け、市ヶ谷の公園へ逃げた祖父が煙にまかれて亡くなりまし設置されていました。敵機が近づくと、まず「プープー」という警戒警報が鳴って、いよいよ爆弾が落とされるときは「ブーッ」って鋭い音の空襲警報に変わるんです。女部田ええ、そうでした。櫻井それから武道館の辺りに、大きな探たん照しょう灯とう(サーチライト)が設置されていましたね。B29なんかが飛んでくると、下から照らして、そこをめがけて高射砲を撃っていた。──空襲が激しくなってからも、東京にいらしたのでしょうか。女部田昭和20(1945)年1月の空襲のときは、本郷にいました。住み込みしていた木造の家は無事だったけれど、道路の向こう側まで全部焼けました。そのとき働いていた工場も焼けてしまったので、池袋の先の千ち早はや(現・豊島区千早)の工場へ移ったんです。自転車に荷物を積んだリヤカーをつけて引っぱっていったけれど、池袋駅の辺りで人が死んでいるのをずいぶんと見ましたよ。櫻井3月9日夜の空襲では、麹町郵便局のあたりまで焼けました。うちの前の魚屋さんにも焼しょういだん夷弾が落ちましたが、ご近所の皆さんでバケツリレーや、火たたきといって水を含ませたモップみたいなもので叩いて火を消したそうです。僕は子供だったから、家族の引くリヤカーで市ヶ谷の公園へ逃げて、空襲が止むまでリヤカーの下に隠れていました。リヤカーから見えたむごい光景──空襲のときの体験を、聞かせていただけますか。櫻井市ヶ谷駅の都営線へ降りるエレベーターがある辺りに、当時は警報を鳴らすサイレンが171未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記座談会