ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ページ
176/214

このページは 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 の電子ブックに掲載されている176ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

期はお米も小麦粉も不足していましたね。小学校では毎日パンが配られたのだけど、木曜日だけ、真っ黒でぽろぽろに乾いていて、ものすごくアンモニアくさいパンが出たんです。今だったら、とうてい食べられない。あの味は、忘れられないです。女部田工場の上の人が田舎に別荘を持っていて、そこへ手伝いに行くとご飯を食べさせてもらえる。それが唯一の楽しみでした。櫻井お金持ちのお宅には、お米がありましたね。空襲でそういうお屋敷が焼けると、方々から人がやってきてお勝手の焼け跡を掘り返すんです。すると下から炊けたご飯が出てくることがあるそうなんです(笑)。女部田そんなことが、ありましたか。櫻井3月の空襲のときは、靖国神社の前にあったお米屋さんが焼けました。その跡地から焦げたお米をもらってきて、その焦げ臭いお米を炊いて食べた苦い思い出もあります。女部田お米は、貴重品でしたから。櫻井あとは大豆やサツマイモ。今みたいに甘くておいしいおイモじゃないんですよ。もっと白っぽくて水っぽくて、ぐちゃぐちゃしたおイモでした。浦和の疎開先では、その辺の雑草を摘つんで食べたこともあります。ちゃんと調べてなかったから、今考えれば毒のある草も食べていたかもしれません。女部田空腹になれば、なんでも食べましたからね。た。その公園に逃げて助かったのは、たった4人だけだったそうです。いじめの苦しさ、食べ物の貧しさ──戦争中は、どんなことが辛つらかったですか。櫻井僕は東京の子ですから、土地の子供にいじめられてね。地元の小学校に転入したけれど、朝の集団登校に入れてもらえない。「東京もんは東京へ帰れ」って言われて。他の子が登校する列の後ろを、1人でとぼとぼ歩いて行ったものです。女部田世の中全体がぎすぎすしてたから、弱い者いじめは、あちこちであったんですよ。私も親元から離れて住み込みで働いていたから、ずいぶんと辛い目に遭いました。父親は群馬へ引っ込んでしまったから、逃げ帰る家もない。仕事もぜんぜん教えてくれなくてね。横で見て覚えるしかありませんでした。当時はたばこを買うにも行列しなきゃいけないんだけど、先輩の職人さんが、「お前が並んでこい」ってね。そんな使いっぱしりをさせられたり。櫻井5月から8月の終戦までほんの数カ月いただけなのだけど、この年になった今でも、浦和に行くのは気が進みません(苦笑)。それくらい、嫌な思い出しかないですね。女部田私は自分が嫌な思いをしたぶん、戦後に父親から板金の仕事を継いだときは、下で働く人や後輩にはできるだけ親切に仕事を教えましたよ。──食べ物にも苦労をなさいましたか。女部田本郷の工場は軍隊の仕事をしていたから、国からちゃんとした食糧が配られていたはずでした。だけど製作所の上の人が悪くてね、工場の人間にはまわってこない。トウモロコシの粉ばっかり食べさせられていましたよ。馬のエサかと思うような、ひどいしろものでした。櫻井日本は資源の少ない国ですから、戦争末172未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集