ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

が行われていたんですね(笑)。安田庭をつぶして野菜を作ったというお話も聞きました。でも空襲後の焼け跡の土では、うまく野菜が育たなかったそうです。石川その話で思い出したけれど、私も父親を手伝って庭で野菜を作っていたんですよ。でも全然、うまくいかなくてね。だからガーデニングや家庭菜園が流はや行っても、僕はまったくやりたいと思わない(笑)。長嶋当時、サツマイモやカボチャばかり食べさせられたから、「もう見るのも嫌だ」という人も多いですね。横山インタビューした人ではないのですが、僕の祖父は「戦争中にサツマイモで救われたから」といって戦後もサツマイモが大好物でした。石川戦争体験といっても、ひとくくりにはできないことが分かりますね。長嶋疎そ開かいさき先でも、福島や新潟に行った人は「食べ物に不自由しなかった」と言うけれど、長野では「すごく苦労した」と言う人もいて。地方によっても違うんだなと。石川親しんせき戚の家へ疎開する縁えん故こ疎開と、学校ぐるみで疎開する学童疎開では、また事情が違ったのでは?安田地方には食べ物が豊富にあっても、同じ時期に、東京では食料がまったく手に入らなかった。なぜだろうと考えると、流通手段は遮断されているし、運ぶための燃料も足りなかったのだと気がつきました。石川食料はあっても、運ぶ手段がなかったということでしょう。安田たとえば大地震のような自然災害でも、同じような状態になる可能性はあります。そう考えると、食糧難というのは決して人ごとではないのだと思ったんです。石川なるほど。戦争という非常事態を通じて、都市の生活を考えるという視点は非常に鋭いと思いますよ。長嶋疎開先の鎌倉で「毎日ブリが出た」と言っていた方もいました。水みず揚あげされても新鮮なまま運べないから、地元で安く売るしかなかったのだろうというお話でした。石川「毎日ブリ」といったら、今ではぜいたくと言われそうです(笑)。何がぜいたくで、何がぜいたくでなかったのか。戦争中の出来事を現在の価値観で考えると、誤解が生じてしまうこともあるかもしれませんね。次の世代へ語り継ぐことの意味石川戦争当時、皆さんと同じ年頃だったという方のお話を聞く機会もあったでしょう。たとえば中学生や高校生だったら、勤きんろうどういん労動員で武器を作る。女子学生も挺ていしんたい身隊で働く。あなたがたがその立ち場になったら、どうすると思いますか。横山僕は逃げ出すと思います。三輪田そのときになってみないと、分かりません。安田私はたぶん、嫌だと思いながらも最終的には行くんじゃないかと思います。長嶋当時の状況としては、行かざるをえないんじゃないか。拒否したら、自分だけじゃなく家族も非国民扱いでしょうから。石川4人それぞれに意見が違うというのが、面白いですね。長嶋僕がインタビューを通じて非常に考えさせられたのは、教育が人に与える影響の大きさです。戦争体験者といっても、年齢によって戦前の教育を受けた人と、戦後の教育を受けた人ではまったく価値観が違う。特に戦争責任や戦後処理について、考え方が根本的に違うような気がしました。だから教育って、すごく大切でもあるし、怖いものでもあるんだなと思ったんです。197未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第4部千代田区の誓い