ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

未来に向かって第5部戦争のない平和な社会を若い世代に引き継ぐために今も鮮明な空襲の記憶石川今日は、戦争体験を振り返り、また渡辺さんが続けておられる朗読劇のこと、若い世代に伝えたいことなどお話しいただければと思います。よろしくお願いします。渡辺そうですね。こうした機会はとても大事だと思います。石川さんは、戦争の頃のことは覚えてらっしゃらないですよね。石川私は昭和16(1941)年2月生まれで、終戦時は4歳でした。だから戦争の記憶はほとんどないんです。渡辺私はしっかり覚えていますよ。石川私は後輩ですね。いろいろ教えていただかなくては。渡辺私は終戦の時は12歳でした。小学校を卒業する年です。3歳上の姉の場合は女学校に入った途端に戦争になって。だから姉は全く勉強していません。4年間毎日、鉢巻きを締めて真しんくうかん空管を作っていたんです。聴く音楽は軍歌。映画も国こく威い称しょう揚ようのものばかり。翻訳の本も出ていない。文化やロマンチックなことは何も知らず、戦争が終わってさぁ結婚となっても、相手になる青年は皆亡くなっていて。本当に姉たちの世代は犠牲者というか…。独身を通された方も多いですね。石川戦争中は、娘さんらしい楽しみもなく学がく徒と動どういん員で過ごされて。渡辺そして戦後、音楽や映画がどっと入ってくるでしょう。演劇も始まるし。姉はそれまでの分を取り戻すように観ていましたね。1人では気が引けるというので、中学生になった私も連れて。おかげで芝居や映画、いっぱい観ました。女優になったのはそれがきっかけですよ。俳優座養成所の募集要項を偶然手に入れて、受けたら受かっちゃった。石川もともと東京のお生まれですね。激しい空襲も体験されましたか?渡辺戦争も最初のうちはまあまあ平へいおん穏な暮らしでした。厳しい状況になったのは昭和18(1943)年か19(1944)年頃です。空襲は今もはっきり覚えていますよ。焼しょう夷い弾だんというのはもう、豆まきみたい。細いものがヒュルヒュルと音をたててばら撒まかれます。爆弾はザーッという音です。これは怖いです。焼夷弾は直接当たらないかぎり、まず死なないんですよ。住宅街には爆弾はめったに落とさなくて、ほとんど焼夷弾でした。終戦の年の1月くらいからは、毎晩12時になると必ず空襲警報が鳴っていました。枕元に防ぼうくう空頭ず巾きんとカバンを置いて寝て、警報が鳴ると半分眠ったまま防空頭巾をかぶり、父が庭に掘った小さな防ぼうくうごう空壕に入るんです。中はじめじめしていて狭く、焼夷弾のヒュルヒュ戦後70年、戦争を体験した方々のお話を聞く機会はますます貴重なものとなっています。原爆で亡くなった子供たちの手記を語る朗読劇を続ける渡辺美佐子さんは、戦争の頃は小学生でした。千代田区長・石川雅己は終戦時は4歳。その時何があったのかを若い世代に伝え、平和の尊さを未来に語り継ぐことの大切さを語り合いました。女優渡辺美佐子・千代田区長石川雅己対談202未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集