ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ページ
207/214

このページは 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 の電子ブックに掲載されている207ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ルや、ドッカーンという地響きが聞こえるのが怖くて。それで私、外に出ちゃうんです。すると、不ふ謹きんしん慎に聞こえるかもしれませんけれど、きれいなんですよ、とても。サーチライトがぱあっと夜空を照らし、ライトをつけた飛行機が飛んでいて。父は屋根に上がり、火の粉が飛んでくるたびバケツの水を含ませた藁わらで叩いて消していました。私ははしごに上ってバケツを父に渡したり。そういうことをしていれば全然怖くなかったですね。壕で音だけ聞いていると怖いし息苦しいし。結局、私の家がある1列だけが焼け残りました。いちばん端にあった鉄筋造りの立派な洋館は、戦争が終わると家ごとソ連に取られました。家でステーキを焼いていた米兵たち石川疎そ開かいはしなかったんですか?渡辺私は末っ子で甘えん坊だったので、学童疎開には行きませんでした。でも昭和20(1945)年の3月、4月、5月は空襲がひどかったですよね。3月の大空襲では下町で大勢の方が亡くなって、私が住んでいた麻布では5月。たまりかねて母と姉、私の3人で信州の篠しのノ井いという町に疎開しました。石川疎開先は親類の家ですか?渡辺うちは松本が本家だったんですが、父方なので母がご遠慮申し上げ、お手伝いさんの実家を頼りました。石川食べるものはありましたか?渡辺東京ほどひどくはありませんでしたが、疎開者に分けてくれるような食べ物はありません。でも東京は本当に何もなかったですね。もともと田んぼも畑もないし、輸送も止まって。終戦をはさんだ何年間か、日本であんなに飢えていたところはありませんね。石川疎開先ではどうしていたんですか?渡辺東京に残った父が毎週、配給のたばこを1箱送ってくれ、それを農家に持って行ってリンゴと換えていました。お米じゃなかったですね。毎日リンゴばかり食べていました。そんな経験なさらなかったでしょう?石川僕は昭和19年に札幌の親類のところに疎開しました。その記憶はないんですが、どうしてか鮮明に覚えているのは青せいかんれんらくせん函連絡船のトイレに行くと、穴の底に海が見えてすごく怖かったこと。その後ずっと乗り物が苦手になりました。疎開先の話は戦後に母からよく聞かされました。リンゴも食べていたらしいです。食べ物を獲得するため、持っていた着物もずいぶん手放したと言っていました。渡辺終戦で東京に帰ってきても食べ物がなく、母がなけなしの着物を持って農家に行くお供をして、武蔵小金井にも何度も行きました。お米はもらえなくてお芋でしたね。石川食べ物を手に入れるのは本当に大変だったんですよね。渡辺母はどこからか手に入れた大豆を炒いって、毎朝新聞紙で作った袋に一握り入れて「1日分よ。ゆっくり食べなさい」と渡してくれるんです。それを1日ポリポリ食べていまし203未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第5部未来に向かって