ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

せいぜいお客様の時のすき焼きくらいしか知よ。私たち日本人は牛肉といえば肉じゃがか、がするんです。ステーキを焼いているんです台所からジャージャーと音がして、いい匂いトイレは共通です。私が大豆を食べていると、進駐軍の将校さんが入ってきました。台所とは2階に1間だけ洋間がありました。そこにた。東京に焼け残った家は少なく、私の家に石川雅己(千代田区長)東京都立大学法経学部卒業後、1963年に東京都庁入庁。千代田区企画課長、東京都港湾局長、東京都福祉局長を歴任し、1999年東京都庁を退職。首都高速道路公団理事を経て、2001年千代田区長選挙に当選し、区長に就任。現在まで就任4期目を務める渡辺うちも作っていました。今では見たこ地を耕しただけだから。ものができないんですよ。畑ではなくて空きていた家庭菜園を手伝いました。でもろくなう空き地があり、日曜には、そこで父がやったね。私が小学校に入った頃は周りにけっこ石川食べることに汲きゅう々きゅとうしていた時代でし戦争は心に大きなダメージをもたらすのでしょう。テーキを食べている。親にはたまらなかった階で、戦争に勝ったアメリカの兵隊さんがスず、お腹を空かせてうずくまっている家の2の3人の負けた兵隊が学校にもどこにも行けて、皆戦争からなんとか帰ってきました。そ両親は辛つらかったんだなぁ。うちは兄が3人いにしていた家なのになぜ?と思いましたが、慌ただしく三鷹に越しました。あんなに大事でしたが、それから1カ月半くらいで出て、渡辺父が設計し、父1人が残って守った家石川それはひもじい子供には残ざん酷こくな…。たように離れないんです。の。でも目がね、真っ白いパンに吸い付かれる。手を出してはいけないことは知っているうんと長い食パンがゴミ箱にポンと捨ててあした。また、朝台所に行くと、アメリカ軍のりません。空きっ腹にはすごく強烈な匂いで月分だったそうです。戦争そのものを体験しす。当時、ペニシリン1本の値段は月給1カる医者を見つけて命を取り留めたといいま者を駆け回り、やっとペニシリンを持ってい石川私も戦後、ひどい風邪と熱で、父が医結核も治っちゃったんですね。でしたよ。毎日1袋の大豆で食いつなぐ間にていたわけです。中学校に入ってからは健康すねと言われました。結核と栄養失調で倒れレントゲンを撮った時に、結核をやっていまだと思っていたんですけれど、大人になって私は子供の頃、よく倒れていました。貧血手が震えていたのを覚えています。に切らなければなりません。包丁を持つ母のなんです。8軒の皆が集まっている中で等分といったふうに来ました。当番になると大変たが、隣組7、8軒に白菜1個とか大根3本に辛かったでしょうか。時々配給もありましんです。だから当時のお母さんたちはどんながつ食べているのを見るのがなにより幸せな渡辺母親というものは、子供が元気でがつね。食べ物の苦労は特にそうです。時の社会状況というものは強烈に残りますなんとなくやる気になれないんです。小さいの記憶があるから、今ブームの家庭菜園も、たいしたものにはなりません。そういう時代るものの出来が悪い。人じん糞ぷんを撒まくんですが、石川芋もナスもカボチャも、ありとあらゆともないようなヘンな菜っ葉とか。未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集204