ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

第5部未来に向かって渡辺美佐子(女優) 1953年「ひめゆりの塔」で映画デビュー。58年「果てしなき欲望」でブルーリボン賞助演女優賞受賞、97年紫綬褒章、2004年旭日小綬章を受章。100本以上の映画に出演する傍ら、1985年より続けている朗読「夏の雲は忘れない1945ヒロシマ・ナガサキ」など、平和に関する活動を多数行っているいうのは、子供にも大人にも大きなダメージ頃は「またか」と思っていましたが、戦争とても生きて帰らなければと思った、と。あのに不条理なものはない、家族のためにどうしいに最後の徴ちょう兵へいで召しょう集しゅさうれたんですながら軍隊での話もしました。昭和。あ19年んくなら直接聞けたわけです。父はしばしば晩ばん酌しをしゃくていなくても、私たちの世代はそういう話を代田区でも平成27(2015)年3月に公演なった子供たちの手記を朗読されていて。千石川渡辺さんは広島・長崎の原爆で亡く広島で亡くなった「水瀧くん」が当たり前になるのが戦争なんですね。石川考えられないようなことですが、それを締めて、人を殺す訓練をしているんですよ。れがいかに恐ろしいことか。小学生が鉢巻きのことだと皆が思い込まされていました。そ勝つんだ、お国のために命を捨てるのは当然ると、すべてが正義になってしまう。日本は変なことだということを知らない。戦争になす。命とは尊とうといものであり、人を殺すとは大いけないんだというのが染みついていたんでいとも絶対言えない。そういうことをしては時も母は泣きません。元気で帰ってらっしゃかく命が軽かったんです。兄たちが出しゅっ征せいする時はそういうものかと思っていました。とにの兵隊が来たら、その棒で突くんだと。そのエイッって突くようになりました。もしも敵いたのが、ある時から棒を持たされ、エイッ操の時間です。駆けっこやラジオ体操をして渡辺私が忘れられないのは小学生の時の体た。大人になってからだんだん分かってきましを与える。そうした経験を伝える大切さは、石川それでは水瀧くんはもう…。た。水瀧くんのご両親だったんです。たのは白髪のおじいさまとおばあさまでし待っていますと、カーテンの陰から出てらしじさんになったろうなとドキドキしながら当日、私もおばさんになったけれど、彼もお人を聞かれてその子の話をしました。そしてビ渡の辺「ごや対が面て」女番優組ににな出りる、時戦、後誰か35年会目いにたテレいいなかったんでしょうか。石川短い間だけの転校生だから誰も覚えて「水瀧くん」のことは誰も知りませんでした。かあったクラス会でも皆に聞いたのですが、のことがずっと忘れられなくて、その後何度疎開したのかなぁと思っていました。その子それがある日、ふっといなくなっちゃった。密ひそかに心で「水みず瀧たきくん」って呼んでいました。「水」と「瀧」の字だけ分かったので、私はしたことはありません。胸につけた名前のほっぺがリンゴのように赤くて。でも、話をすごくかわいい子でしたよ。小麦色の肌で毎日、後になり先になりして歩いていました。しがく転15、校生16人がに来なたっんてでいすま。し帰たり。道そがこ同にじめでず、ら年の頃は皆疎開していて、何百人もいた生徒渡辺戦争中の話になります。私が小学校5からなのですか?と思います。始められたのはどんなきっかけしてもらいました。本当に素晴らしい活動だ205未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集