ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

島、硫いおう黄島とうに飛行場を作り、基地で給油し、B29が日本本土へ爆撃ということになったのです。どこの小学校にも警報機があって、それが1分間鳴ると警けいかいけいほう戒警報。次に爆撃機が来るときは空襲警報。空襲警報は同じ1分間でも、短めに10回鳴ります。警戒警報発令後に空襲警報となるため、国民は警戒警報を聞いて避難の準備を始める。警報はラジオでも流れました。──3月10日の東京大空襲について教えていただけますか。日本全国で空襲がありましたが、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲は、最も多くの人が亡くなった空襲です。10万人以上が犠牲になりました。そのとき私はまだ15歳でした。3月10日は陸軍記念日で、アメリカ軍が効果を上げるために爆撃してくるかもしれない、そんな噂うわさはありました。初めに2機が来て、九十九里浜をグルグル回って偵察していました。それにより日本の電波探知機は妨害されていたのです。後ろには小笠原列島付近にまだ200機以上いるのですが、日本の電波探知機はそれを探知できなかった。つまり、最初の2機は本隊が探知されないように邪魔していたわけです。だから、夜中の12時頃に空襲警報が出たときは、江戸川あたりにもう焼夷弾が落ちていました。どうもおかしいという情報はあったのですが、はっきりとは分からなかったんですね。最初の1発が落ちたと同時に空襲警報だからもう遅い。それが、東京大空襲の始まりでした。そして、絨じゅうたん毯爆撃が始まりました。昭和通り、中央通り、明神下通りと、タテからヨコから焼夷弾を落とされる。両方から燃やしていけば、中央はみんなやられるでしょう。そんな戦略だったんです。江東・深川地区も同様です。──角田さんはどこへ逃げたのですか。私は家族と一緒に総武線のガード下に逃げ込みました。父親は警けいぼう防団だん長ちょうをやっていたから一緒ではありませんでした。ガード下から中央通りの上空を見上げていたら、B29が1列に飛んでゆくのが見えました。それまでだいたい8000?1万メートルの高度だったのが、10階建てのビルの高さくらいでしょうか。米軍のマークも見えました。それくらい低空で飛んでいたのです。その後、昌平橋まで逃げて、さらに今は再開発になっている淡路小学校(現在は昌平小学校へ統合)へ逃げました。そのあたりは焼けていませんでしたから。神田でも内神田や神保町の本屋街は最後まで残りましたが、外神田や和泉町、東神田、岩本町などは軒並みやられました。亡くなった方は、火に焼かれるのもあるけれど、一酸化炭素中毒の犠牲者が多かったです。お母さんと子供が手をつないで一緒に逃げていると、バタンとお母さんが倒れてしまう。子供は、「お母さん、どうしたの!」と泣き叫ぶ。神田と大手町をつなぐ鎌倉橋。欄干には、昭和19年11月の米軍機による爆撃と機銃掃射の跡が残っているB29米ボーイング社の重爆撃機で、高度1万メートル、4トンの爆弾を積んで5500キロメートルの距離を飛行できた「超空の要塞」。昭和19年6月以降、まずマリアナ基地から、次いでグアムから日本本土を完全な射程距離に入れ、東京、大阪、名古屋など各都市を焦土とした。37未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記空襲