ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

お母さんは倒れたけれど、子供はちゃんと生きている。なぜだか分かりますか?あたりはものすごい煙で一酸化炭素が充満しているから、それを吸ってしまって一酸化炭素中毒になるのです。小さな子供は背が低いから一酸化炭素にまかれなかったんですね。──防ぼうくうごう空壕には逃げなかったのですか。自宅にも防空壕はありました。道に穴を掘り、屋根を作っていて、空襲警報や警戒警報が出たらそこに入りました。でもその日は、すぐに防空壕から出て、ガード下へ避難しました。うちも木造2階建ての家が焼けました。防空壕に入ったまま亡くなった人も多かった。近くに神かみ尾お病院があって(現在は駿河台)、そこの看護師さん8人くらいが防空壕に逃げ込み、中で死んでいました。外に出たら危ないと思ってずっと中にいたのですが、やっぱり煙が充満して一酸化炭素にやられたんです。──本当にひどい状態だったのですね…。妊娠中のお腹なかの大きいお母さんが3?4歳の女の子の手を引いたまま、小学校の裏で死んでいました。小学校の中に避難しようとしたけれど、中に入れなかったのです。当時、小学校は鉄筋コンクリートだから、焼けないで残るように、学校のまわりの建物を強きょうせい制疎そ開かいさせる、つまり建物を取り壊していたんです。早く逃げてきた人は小学校の中に避難して、延焼を防ぐため鉄の扉を閉めた。さらに避難してくると、扉を15センチメートルくらい開けて1人入れたらまたすぐ閉める。そうしないと火が入ってきて、せっかく中に避難した人も死んでしまいますから。小学校の中に入れた人は助かったけれど、入れなくて外にいた人は死んでしまった。まさに、生死の境です。空襲が終わってから、その親子の遺体を見ました。焼けたトタン板をかぶせてみんなで手を合わせていました。気の毒でしかたがありませんでした。小学校の外壁に手をついたまま死んでいた人もいて、その跡が残っていました。人間には脂があるから、手の脂が壁に染み付いているんです。戦争が終わって3?4年は、外壁のあちらこちらが黒ずんでいました。芳林小学校に入れなくて、芳林公園に逃げた人たちも多かったです。公園には貯水池があり、消火のために水を貯ためていました。背負っているリュックサックに火がついているからみんな水の中に入るのですが、水が熱湯になっている。その公園では、私の1級下の友達が亡くなりました。しばらく公園内に、ご両親が彼の名前を書いた木もく碑ひが立っていました。みんなで花をあげていましたね。──お父さんが警防団長ということですが…。警防団長だった父は、団員と一緒に小学校に集まっていましたが、どこもかしこも空襲で火災になっているから、うちに帰って家庭を守ろうと解散しました。父は小学校から中央通りへ出たらしいのですが、中央通りも焼け始めていて、持っていた団旗に火がついた。だから上の東京大空襲で上半分を焼失した警防団団旗の旗竿38未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集