ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

旗を放棄して、下の棒の部分だけ持ち帰ってきました。戦後、父は「警防団の旗だぞ」と言って杖つえがわりに使っていましたね。その団旗はうちに大切に保管しています。勤きんろうどういん労動員で羽田に通う──当時は中学生とのことですが、どのような学生生活だったのでしょうか。私は芝中学校に通っていました。中学3年生までは授業をやりますが、昭和19 (1944)年、勤労動員に駆かり出され、中学4年生の2学期から羽田の軍ぐん需じゅ工こう場じょうに通いました。羽田の飛行場の手前に荏えばら原製作所があり、そこで潜水艦などの部品を作っていました。もう戦争も行き詰まっていた頃でしたから、いったい何を作っているのか分からなかったですが、鉄を一生懸命こすっていましたね。羽田空港に行くと、今でも工場の跡が残っていますから懐かしいです。当時の中学は旧制中学校で、5年で卒業します。私たちの代は1年短縮され、昭和20(1945)年、4年生で卒業になりました。4年生と5年生が一緒に卒業です。3月25日が卒業式ですが、3月10日の空襲で芝中学校も全焼してしまったから、増ぞう上じょう寺じの前の石段で卒業式をしました。そのうちに雨がしとしと降って来ました。卒業証書は謄とうしゃばん写版を使ってザラ紙に刷ったもので、判はんこ子だけはちゃんと押してありました。それをもらったのを覚えています。昭和20年8月米軍機からまかれた伝単(宣伝ビラ)39未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記空襲