ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

母がとても厳しい人でね。「私たちはこれでまず外苑前の青山電話局にあった養成機関で交──朝からたいへんですね。て、同級生はみな電話交換手になったんです。んです。女子挺てそれを終えないと、学校に行かせてもらえないした。昭和い身しん隊たいとし18(て1943)勤きん労ろう奉ほう仕し年をかすらるはこ女と子に学な生っもに1つずつ重ねて乾かして、日光消毒するの。だんと勉強できる雰囲気ではなくなっていきまお日様に干すのは私の役目。歩道と車道の境目まったり、英語の授業がなくなったりと、だん校に上がってからは、前の日に使った木の桶おけを戦争が激しくなるにつれて先生が疎そ開かいしてし小さい頃から店の手伝いをしたものです。小学──学校の様子はどんなでしたか。人と姉2人の6人兄姉でしたが、末っ子の私も本当に悲しかったですね。お風呂屋さんはとても繁はんじ盛ょうしたのですよ。兄3間に強く挟んで文字盤が壊れてしまったのは、たが、戦前は神田も人がたくさん住んでいて、買ってもらった腕時計を電車の手すりと身体のりました。今はすっかりビルばかりになりましど滅多にありませんでした。ある時、せっかく父が始めた小沢湯は、神田神保町2丁目にあて、いつもお客さんでぎっしり。座れることな浴場)だったそうですね。通っていました。あの頃の都電は本数が少なく──冨川さんのご実家は、お風呂屋さん(公衆小石川にある村田女子商業学校まで、都電で──戦争当時は、学生だったのですか。実家は神田のお風呂屋さんご飯を食べているんだよ」が、口ぐせでした。強用具だったそうです。ていちばん悲しかったのは、教科書る経験をされたという冨川昭枝さん(やえ86歳ん)。ぴ焼つけなてどしのま勉っ越し先の青山でも空襲で親子3人、命からがら逃げのび4月の空襲で実家のお風呂屋さんが全焼。5月には引っ防空壕の中で焼け焦げていた私の教科書爆弾で吹き飛ばされた交差点で当時のことを説明する冨川さんとみかわあきえ冨川昭枝西神田インタビュアー安田律子(大学院2年生)長嶋泰(大学1年生)松崎瑠々花(中学1年生)未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集42